立教高等女学校の戦争

著:神野正美(光人社NF文庫)

太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、深刻化する労働力不足を補うため、国民学校高等科や中等学校以上の学生(現中学校1年生以上に相当)は、労働者として戦時総動員体制に組み込まれていき(※1)、1945(昭和20)年4月には、授業は完全に停止された。
このノンフィクション作品の舞台は、そんな学生が学生でいられなかった時代の、久我山にあった立教高等女学校(現立教女学院中学校・高等学校)だ。当時の女学生たちの回想(※2)を中心に、彼女たちが体験した戦争が描かれている。シンボル的存在の聖マーガレット礼拝堂には機械音が響き(※3)、女学生たちは神をたたえる讃美歌を歌う代わりに、日本の勝利を祈り軍需物資生産に従事した。
写真も数多く掲載され、戦争の時代を伝える貴重な記録になっている。初版は、2012(平成24)年に単行本『聖マーガレット礼拝堂に祈りが途絶えた日』(2024(令和6)年現在絶版)として発行され、文庫化にあたり書名が変更された。

おすすめポイント

立教高等女学校は、礼拝堂で軍需物資を生産するだけでなく、もう一つの特筆すべき任務を担っていた。海軍の水路部(※4)が、空襲を避けるため学校内に井の頭分室を設け、女学生たちの一部は水路部勤務の女性の指導の下、1944(昭和19)年10月より星の位置の計算(※5)に従事した。
作品中には、当時最年少の2年生だった女学生たちの証言が掲載されている。計算と数字の筆記業務に終始する作業の苦労が語られ、知られざる勤労奉仕の存在に光が当たり興味深い。また、彼女たちは、監督役の若い海軍士官へ胸をときめかせたり、新しい遊びを工夫したりといった楽しい思い出も語っている。ささやかな楽しみを支えに勤労に励んだ少女たちの日々が伝わり、心に残る。

聖マーガレット礼拝堂(写真提供:学校法人立教女学院)

聖マーガレット礼拝堂(写真提供:学校法人立教女学院)

聖マーガレット礼拝堂内。戦時下には工場として使用された(写真提供:学校法人立教女学院)

聖マーガレット礼拝堂内。戦時下には工場として使用された(写真提供:学校法人立教女学院)

立教高等女学校の守り人・秋吉少将を描く関連作品

水路部井の頭分室で作業をした水路部勤務女性や女学生たちの回想にたびたび登場するのが、受け入れ学校との折衝に尽力し、校舎が荒らされないよう心を配った秋吉利雄少将だ。海軍軍人・敬虔(けいけん)なクリスチャン・天文学者と多様な顔を持ち、温和な人柄で彼女たちに慕われていたという。善福寺にあるミッション系の東京女子大学にも彼の働きかけで水路部が入り(※6)、杉並との縁を感じさせる。
秋吉少将の人生や、水路部の業務に興味が湧いたら、おすすめなのが池澤夏樹の小説『また会う日まで』だ。著者の大伯父である秋吉少将が、軍人としての責務と信仰のはざまで苦悩する姿が描かれている。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の景観を彩る建築物>立教女学院 聖マーガレット礼拝堂
すぎなみ学倶楽部 特集>杉並の大学・短期大学>東京女子大学

※1 学徒勤労動員の強化を目指し、1944(昭和19)年「学徒勤労令」「女子挺身勤労令」が公布された
※2 聞き取りは、2009(平成21)年から2011(平成23)年にかけて行われた
※3 立教高等女学校は、生徒たちを空襲で被災する恐れのある軍需工場に出勤させず、校舎を作業所として使用する学校工場方式をとった
※4 水路部:旧日本海軍の組織の一つで、海軍省の外局。海図製作・海洋測量・海象気象天体観測を行った。現在、その業務は海上保安庁海洋情報部が引き継いでいる
※5 潜水艦などの艦船が現在位置を確認するための高度方位暦作成に欠かせない作業
※6 1945(昭和20)年2月に水路部は撤退し、陸軍が校舎を接収した

DATA

  • 取材:村田理恵
  • 撮影:村田理恵
    写真提供:学校法人立教女学院
  • 掲載日:2024年08月12日