光明院の本尊「木造千手観音菩薩坐像」は、杉並区指定文化財有形文化財に指定されており、年2回の御開帳の折に拝むことができる。第2次世界大戦前までは、本尊の写し観音が近隣の檀家(だんか)・信徒宅に貸し出されて巡回し、3カ月から1年後に光明院に戻される行事が行われていた。写し観音は、平成23(2011)年、本堂に隣接する慈雲殿新築の際に補修して慈雲殿に安置された。希望者は申し出により拝観することができる。
かつての光明院の境内は広大であったという。1837年の上荻窪村の絵図によると、境内の北側が青梅街道に接していたことがわかる。青梅街道と環状8号線の交差点名に残る「四面道(しめんどう)」の地名の由来には諸説あるが、その一つに、四つの村が接する場所にあった光明院の小さな御堂が四方に面していたので、「四面堂」と呼ばれていたという説がある。
また、環状8号線が中央線をくぐり、南の善福寺川に向かって緩やかに下る道は、昭和初年まで、堂前坂(どうめえざか)と呼ばれ、その付近に堂向(どうむけえ)という地名があった。いずれも光明院に起源を持つといわれ、往時の境内の広大さが想像できる。
杉並ゆかりの人々も訪れた光明院
光明院には、杉並ゆかりの文士や芸術家も訪れている。天沼に住んでいた作家・上林暁(かんばやし あかつき)は、生前光明院の鐘を好んで突いていたとされ、同院での葬儀の際は、参列者が鐘を突いて冥福を祈ったのだそうだ。田代弘興住職によると、「版画家の棟方志功が近くに住み、光明院を散策したり近隣商店街の菓子屋の包み紙などの絵を描いたりしていた」という。
▼関連情報
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境内にある「天和二年銘手水鉢」は、杉並区指定文化財有形文化財に指定されており、区内最古の手水鉢である。安山岩で作られ正面と左、右面にハスの花の彫りが施されている。石工は江戸市中木挽町(現東京都中央区銀座)の名のある者で、当時としては珍しく江戸から運ばれてきた。普段水は張られていないが、行事の際に水を張り手水鉢として利用される。
また、昭和5(1930)年に光明院から善福寺川にかけての一帯で発見された「光明院南遺跡」は、8度にわたる発掘調査で、旧石器時代・縄文時代・江戸時代の複合遺跡であることが判明。第6次調査では、現在慈雲殿が立つ場所から縄文時代の石棒3点が出土し、杉並区指定文化財有形文化財に指定された。慈雲殿の屋上庭園では、そのレプリカを配置して発見当時の様子を再現している。石棒は、杉並区立郷土博物館(本館)が所蔵しており、普段一般公開はしていないが、企画展などの時には展示される。
『杉並資料集録 杉並近世絵図』(杉並区教育委員会)
『文化財シリーズ37 杉並の通称地名』(杉並区教育委員会)
『杉並区の指定登録文化財』(杉並区教育委員会)
『杉並歴史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並風土記上巻』森泰樹(杉並郷土史会)
『堀江家文書』(東京都立大学図書館本館所蔵)
「発掘された縄文時代-光明院南遺跡-割れた石棒のなぞにせまる」展示リーフレット(杉並区教育委員会)