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津田青楓さん

西洋、東洋、双方の画道を極める

津田青楓(つだ せいふう 1880-1978)は西洋と東洋の絵、双方の精神を追求し、修練を積み、総合芸術の創出を試みた画家。図案・洋画・美術工芸・日本画・書、多彩な創作活動を98年の生涯にわたって展開した。自然を描き、人を描き、その膨大な作品の数々は人間味あふれ、豊かな色彩と独特のリズム感で見る人を引き付ける。
津田は、杉並とも縁の深い画家だ。50歳の時、東京府豊多摩郡杉並町天沼(現東京都杉並区天沼)に移転。戦時中は茨城県筑波郡小田村(現茨城県つくば市)に疎開するが、戦後は杉並区上高井戸(現杉並区高井戸西)で暮らした。
晩年の津田と身近に接した孫の髙橋りえ子さんの話を交えながら、津田の生涯と作品を紹介する。

PDF:津田青楓 年譜(138.8 KB )

津田青楓(笛吹市青楓美術館所蔵)

津田青楓(笛吹市青楓美術館所蔵)

祖父、津田青楓

「津田の家には12畳の仕事場があり、奥に書庫がありました。祖父は畳の上に座って絵を描き、何をするにせよずっとそこで過ごしていました。背筋をぴんと伸ばして。よくずっとあの姿勢でいられるなと思いましたね。書庫にはとてもたくさんの本があり、面白い本を探すのが楽しみでした」
朝食は決まって紅茶とトースト。レバーペーストとマーマレード、パリ風だった。「たばこは最後まで吸っていました。たばこ盆に、たばこ(いこい)と灰皿を載せて、家中どの部屋へ行くにも持ち歩いていました」
髙橋さんは津田からよく昔の話を聞かされた。「女の子だから話しやすかったのか、もともと子供が好きだったのでしょうね」。しかし、仕事や作品の話はしたことがなかったと言う。

津田の四女・萬里子さんの長女、髙橋りえ子さん

津田の四女・萬里子さんの長女、髙橋りえ子さん

生きることに煩悶(はんもん)した画家人生

津田は、1880(明治13)年、京都府京都市上京区(現京都府京都市中京区)生まれ。実家は生花「去風流」の家元で、家計は苦しく切花を売る商売も営んでいた。尋常小学校卒業後、でっち奉公に出たが、学問や絵への思いが断ちがたく、京都市立染織学校に入学。図案から織物までの過程を学び、図案制作の技術を取得した。津田の生涯を貫く絵師的気風は、京都での幼少期に育まれた。
その後、京都高島屋の図案部に勤務。その間、20歳の時に徴兵され、日露戦争にも従軍し、203高地の激戦も体験した。1907(明治40)年、農商務省海外実業練習生としてフランスに渡航。約4年間、油絵を本格的に学んだ。帰国後、東京府東京市小石川区高田老松町(現東京都文京区目白台)に移転。新進の洋画家として脚光を浴びる。また、生計を立てるためもあり、同時に日本画も描き始める(※1)。この頃、小説を愛読していた夏目漱石を訪問、漱石と門人たちの集い「木曜会」に通った(※2)。

1903(明治36)年に発行された多色木版図案集『うづら衣』(芸艸堂刊)より(笛吹市青楓美術館所蔵)

1903(明治36)年に発行された多色木版図案集『うづら衣』(芸艸堂刊)より(笛吹市青楓美術館所蔵)

津田青楓装丁の夏目漱石著『明暗』『道草』(複刻本)(日本近代文学館 名著複刻 漱石文学館)

津田青楓装丁の夏目漱石著『明暗』『道草』(複刻本)(日本近代文学館 名著複刻 漱石文学館)

1914(大正3)年、文部省美術展覧会(文展)の審査方法に抗議。フランスで一緒に油絵修業をした安井曾太郎らと美術団体「二科会」を結成した。
「人間はなんのために生まれ、何をすべきかを知りたかった」(『春秋九十五年』)と、津田は記している。人生哲学を追求することと、絵を描くことが絡み合っているのが、津田の画家人生だった。混迷する社会にあって、画家として何ができるのか突き詰めるようになった。
1923(大正12)年、関東大震災に遭い、郷里の京都に戻る。この時期、若い頃より著作を読み、その考え方や生き方に共感していたマルクス主義経済学者の河上肇を訪問(※3)。河上の翰墨会(かんぼくかい 書・絵・食事を楽しむ会)に参加し親交を深めた。
1926(大正15)年には「津田青楓洋画塾」(※4)を開塾。当初は塾生数人で始まったが、津田を慕う人々が集まり、塾の規模は大きくなっていった。

「荻窪宅にて」と裏書きがある津田の写真(写真提供:髙橋りえ子)

「荻窪宅にて」と裏書きがある津田の写真(写真提供:髙橋りえ子)

「待つ女」。昭和初期の作(笛吹市青楓美術館所蔵)

「待つ女」。昭和初期の作(笛吹市青楓美術館所蔵)

1930(昭和5)年、再上京。洋画塾の拠点を杉並町天沼に移し、自身も近所に引っ越した(※5)。洋画塾では新興リアリズム(※6)を提唱し、反体制的な創作活動や言論活動を進めたため、1933(昭和8)年に天沼の自宅から連行され、約1カ月間留置された(※7)。
転向を表明して釈放された後、洋画の世界からの決別を宣言、二科会からも脱会した。翌年、近所に転居。「墨荘」と名付けた自宅で、54歳より自称「荻窪隠栖生活」に入り、日本画、書の創作に専心するようになる。また、かねてから良寛(江戸時代後期の禅僧)の書に感銘を受けていたが、その人生と思想を研究し、自身の生きる糧(かて)としていった。
この時期、執筆活動も行い、随筆集や良寛の研究書を出版した。戦時体制下には、数多くの画家が国策に協力して戦争画を描いたが、津田は戦争画は描かなかった。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ>懶(らん)六十三記

連行された際に制作中だった「犠牲者(習作)」。隠されて没収を免れた(笛吹市青楓美術館所蔵)

連行された際に制作中だった「犠牲者(習作)」。隠されて没収を免れた(笛吹市青楓美術館所蔵)

天沼時代に発刊された随筆集の数々。『懶六十三記』『懶画房草庵』『雑炊』『墨荘雑記』

天沼時代に発刊された随筆集の数々。『懶六十三記』『懶画房草庵』『雑炊』『墨荘雑記』

年を重ね、さらに新境地を開く

終戦により、津田が沈黙を強いられた時代は終わった。
1947(昭和22)年、疎開先の茨城県小田村から杉並区上高井戸に移転。津田の好んだ富士山が遠望できる神田川沿いの丘陵地だった。この地に移り住んだのは「祖父の旧友、酒井億尋さんが上高井戸に住んでいらしたから」と、髙橋さんは伝え聞いている。「酒井さんはよく津田の家に遊びにいらして、二人で長いこと語り合っていました。酒井家の表札の字は祖父の手によるものです」
上高井戸で津田は、年とともに衰えるどころか、自由闊達(じゆうかったつ)な創作活動を展開した。展覧会も日本画を中心に定期的に開催され続けた。「遠出するのは展覧会の時くらいで、ほとんど家で朝からずっと絵を描いていました。平日はお手伝いさんが来て、お休みの時は私が代わりに食事の用意や接客をしていました。画商さんや本屋さんなど、来客は多かったですね」
1974(昭和49)年、94歳の時、山梨県に青楓美術館(※8)が開館。津田も企画から関わり、作品70数点を寄贈した。95歳で晩年の連作「富嶽百景」の展覧会、97歳で白寿を記念した展覧会を開催し健在ぶりを示したが、その翌年、自宅で98年の生涯を閉じた。

▼関連情報
笛吹市青楓美術館(外部リンク)

1965(昭和40)年の作「寝覚の床図」(笛吹市青楓美術館所蔵)

1965(昭和40)年の作「寝覚の床図」(笛吹市青楓美術館所蔵)

1974(昭和49)年頃の作、良寛の漢詩が書かれた「良寛和尚の像」(笛吹市青楓美術館所蔵)

1974(昭和49)年頃の作、良寛の漢詩が書かれた「良寛和尚の像」(笛吹市青楓美術館所蔵)

絵からにじみ出る人間性

津田の絵は、どの作品も津田の人柄を感じさせ、それがまた魅力となっている。髙橋さんにも、祖父の人柄を彷彿(ほうふつ)させる思い出がたくさんある。「小学校4年の時に津田の家の隣に引っ越して来て、高円寺の光塩女子学院初等科に転入することになりました。学校に向かう道すがら、ふと振り返ったら祖父がいるんです。離れたところで探偵みたいに。私は病気がちだったし、家から学校まで遠いし、心配で付いて来たのでしょうね」
津田が描いた髙橋さんの絵も残っている。「成人式の時、祖母に晴着をあつらえてもらいました。“描いてよ”と言うと、晴着姿を描いてくれました。祖父が96歳の時です。私の名前は“りえ子”なんですが、添書きが“れい子”(髙橋さんの叔母の名)になっているんですよ。モデルとなって腰掛けたのですが、いきなり描き出すんです。そうしたらだんだん紙が足りなくなってしまい、下の方に紙を貼り足したんですよ」

家族写真。上高井戸の津田青楓宅の庭にて(写真提供:髙橋りえ子)

家族写真。上高井戸の津田青楓宅の庭にて(写真提供:髙橋りえ子)

髙橋さんの成人式のお祝いに津田が描いた絵(写真提供:髙橋りえ子)

髙橋さんの成人式のお祝いに津田が描いた絵(写真提供:髙橋りえ子)

天沼でも上高井戸でも、人との交わりを糧とした

津田は、会いたい人には会いに行くのが流儀だった。天沼に移転してからも、美術関係者に限らず、登張竹風、日夏耿之介など多くの人と親交を持った。そうした人間関係は、留置され傷心の津田を助けた。津田が釈放された際、その翌日、真っ先に見舞いに天沼の家を訪れたのは与謝野晶子だった。
また、地元に、絵を学び楽しむ場を提供した。天沼時代の洋画塾に続き、上高井戸でも画塾を開いた。「私が引っ越して来た時には、画塾は始まっていました。週に2回午前中、日本画と書を教えていました。祖父は花が好きでよく画題にしていましたから、教室のある日には、神田川近くの花屋さんから季節の花が届けられていました」
界隈(かいわい)では「先生」の呼び名で通っていたという。

「伊万里壷」。 1949(昭和24)年の作。油絵具で描かれた日本画(笛吹市青楓美術館所蔵)

「伊万里壷」。 1949(昭和24)年の作。油絵具で描かれた日本画(笛吹市青楓美術館所蔵)

「伊万里壷」と同じテーマの絵。髙橋さん所蔵

「伊万里壷」と同じテーマの絵。髙橋さん所蔵

光彩を放ち続ける津田の業績

2020(令和2)年は津田青楓生誕140年の年にあたり、練馬区立美術館(2020年)、新宿区立漱石山房記念館(2021年)、渋谷区立松濤美術館(2022年)と、東京都内でも展覧会が相次ぎ開催された。今後も笛吹市青楓美術館を中心にシンポジウムが計画されている。
著作権継承者の髙橋さんもなにかと多忙な日々を送っている。「5、6年前、鈴木三重吉さんのお孫さんが、漱石門下生の子孫たちを集めようと奔走されて、新宿区立漱石山房記念館で会合があったんです。私も祖父に描いてもらった成人式の時の晴着を着て参加しました」
津田は自宅の庭の季節の移り変わりを眺めることが好きだった。自作年譜88歳の時の記載で、「長寿八十八白翁トナル 石ヲ愛シ孤独ヲ托ス 梅花桜樹数株ヲ植エ 冬ヲ恐レ春夏ヲ喜ブ」(『春秋九十五年』)と記している。「庭木や庭石は今もそのままです」と髙橋さん。祖父について「苦労した人、本当に絵を描くことが好きだった人」と津田の生涯を振り返った。

庭を案内してくれた髙橋さん。庭木や庭石は当時のまま

庭を案内してくれた髙橋さん。庭木や庭石は当時のまま

津田の図案をあしらった、笛吹市青楓美術館のポストカード

津田の図案をあしらった、笛吹市青楓美術館のポストカード

※ 記事中、故人は敬称略
※1 津田は洋画と日本画について、のちに「僕は西洋画は文化の推進を高めるために献身的にやつてゐたし、日本画は個人の幸福のためにつくすことになる仕事と思つてゐる」「西洋画の中にも日本画の要素を考え、日本画の中にも西洋画的要素をとり入れることを考へるようになってきた」(『雑炊』)と記している

※2 津田は漱石から観念論、自由主義を学んだが、同時に漱石の絵の先生だった。津田は漱石の本の装丁も数多く手掛けた
※3 津田は河上から唯物論、社会主義を学んだが、同時に河上の絵の先生だった
※4 津田青楓洋画塾:学芸員制度をとり、洋画に限らず多角的に塾生を指導。天沼時代の学芸員は、板垣鷹穂、岡本唐貴、横川毅一郎、谷川徹三、茅野儀太郎。最盛期には東京・京都・名古屋に開塾し、塾生は約150人に及んだ
※5 売りに出ていた、早世した前田寛治の天沼のアトリエを購入。ついで荻窪駅北口から青梅街道を渡ってすぐの貸家に引っ越した。アトリエは天沼八幡神社の東側にあった

※6 新興リアリズム:「真実を見ぬく眼を以て大衆を描け」(『雑炊』)。津田は、大衆を、大衆の生きる社会を見据えて描くことを提唱した。プロレタリア美術運動とは協調しながらも一線を画し、「新興リアリズム」と称した
※7 留置されたのは、共産党への資金提供(実際は、日本画を数枚描き、売って資金にするよう渡した)と、共産党に入党し地下活動を行っていた河上に隠れ家を提供した疑いからだった
※8 青楓美術館:津田の絵の愛好者だった、練馬区の幼稚園経営者・小池唯則さんが、自身の郷里、山梨県東八代郡一宮町(現山梨県笛吹市一宮町)に私費で設立した美術館。現在は笛吹市青楓美術館となり、津田の業績を現代に伝えている


「六十歳正月巳卯歳」と書かれた写真(写真提供:髙橋りえ子)

「六十歳正月巳卯歳」と書かれた写真(写真提供:髙橋りえ子)

1965(昭和40)年3月(写真提供:髙橋りえ子)

1965(昭和40)年3月(写真提供:髙橋りえ子)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『春秋九十五年』津田青楓(求龍堂)
    『老画家の一生 上巻』津田青楓(中央公論美術出版)
    『老画家の一生 下巻』津田青楓(中央公論美術出版)
    『雑炊』津田青楓(楽浪書院)
    『墨荘雑記』津田青楓(楽浪書院)
    『懶画房草筆』津田青楓(中央公論社)
    『懶六十三記』津田青楓(櫻井書店)
    『生誕一四〇年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』(芸艸堂)
    『津田青楓 近代日本を生き抜いた画家』大塚信一(作品社)
    『漱石と十弟子』津田青楓(芸艸堂)
    『道草』夏目漱石(日本近代文学館 名著複刻 漱石文学館)
    『明暗』夏目漱石(日本近代文学館 名著複刻 漱石文学館)

  • 取材:井上直
  • 撮影:TFF
    写真提供:髙橋りえ子、笛吹市教育委員会
    取材日:2024年10月10日
  • 掲載日:2024年12月02日