二・二六事件で襲撃を受けた渡邉錠太郎邸は平成20年2月に解体された。その3年前に私は「記録に残したい歴史(一)」で事件を取り上げて邸宅を残して置きたいと気持を述べたが、老朽化、渡邉家の事情もあって5階建のマンションが建築されている。
解体から1年を経過した平成21年3月8日に、事件を目の当たりにした二女の渡邉和子さんが「父渡邉錠太郎と私」と題して杉並区立郷土博物館で講演をされたので、私が書いた「記録に残したい歴史(一)」を補いながら、和子さんの講演の内容(全てではありません)について述べたいと思う。この講演については朝日新聞阪神版4月30日「明日も喋ろう」に吉野太一郎記者が記述している。
平成20年1月、渡邉邸の門前に解体工事の表示が出され、NHKや朝日、読売、東京の各紙がこれを報道した。解体を前に錠太郎長男誠一(故人)の二男裕さんが区職員らに惨劇のあった寝室や調度品、それに各部屋と兵隊が突入してきた裏口などを説明して下さった。
これを機会に、当時のまま銃弾の跡が壁に残る玄関や和子さんが身を隠した籃胎(らんたい)漆器座卓、及び設計者・柳井平八の名前が書かれた棟札などを杉並区が寄贈を受けて、郷土博物館で2009年2月から5月にかけて特別展を開催した。
詳しくは杉並区立郷土博物館発行「二・二六事件の現場――渡邉錠太郎と柳井平八――」をお読み下さい。
▼杉並区立郷土博物館HP
「私は昭和2年生まれで二・二六事件のときは9歳、正しくは8歳と2週間でした。
現場で父の死を看取ったのは私一人となったので、当時の思い出を語っておこうと思いました。姉は22歳年上で次ぎが15歳と13歳の兄二人です。姉は久保家に嫁ぎすぐ近くに住んでいました。
家では和室の応接間で、籃胎(らんたい)の座卓で客を持て成していました。洋間もあり和室は夜は寝室でした。私は寝室で父と母の間で川の字で寝ていました。
母は5時に起きて、二人のお手伝いさんに雨戸を開けさせたりしていました。
襲撃のあったときは6時前だったと思います。
激しい怒号でトラック一台(に乗ってきた)三十数名の兵士が門を乗り越えて入ってきました。
玄関のガラス戸に銃弾が撃ち込まれたようでした。
父は左の襖を開けて戸棚の拳銃を手にして、覚悟していたものと思われます。
「和子はお母様のところへ行きなさい」と言いました。これが私に対する父の最後の言葉でした。
母のところへ行きましたら、母は玄関で兵を入れまいとしていたために、私は父のところへ戻ったのです。そのとき既に弾が寝間に撃ち込まれていました」
「私は銃弾をかい潜って父のところへ行きました。父は掻い巻き(かいまき)を身体に巻きつけてピストルを構えていました。
私が戻ったので父は困った顔をして、目で籃胎座卓の後へ隠れるよう指示しました。私はそこに隠れました。開けられた襖から見えた機関銃の銃口が父を狙っているようでした」
「父はドイツ駐在武官時代に射撃の名手だったので、ピストルで応戦しましたが、片脚は殆ど骨だけでした。
玄関から入れなかった高橋、安田少尉が外へ回って、開けてあった縁側から茶の間に入ってきて射撃をして、トドメを刺して引き上げて行きました」
「母が玄関から戻ってきて「和子は向こうへ行きなさい」と言いました。
午後になって検視のあと父の頬に触れましたが、とても冷たかったのを今でも覚えています。
姉は、父が銃弾43発を受けたと言っていました。
父の脚は骨だけで肉片が座敷に散らばっていました。
憲兵二人は二階に泊まっていました。
兵隊たちは斎藤内大臣を殺害したあとに来たので、なぜ電話が無かったのかと思っています。電話があったという話もありますが、電話の音は聞こえませんでした。電話があれば父を久保家(長女の嫁ぎ先で2~3軒隣り)に隠すことが出来たのではなかったかと、今でも思います」
「血の海の中で父は死にました。
あのとき逃げ隠れしないで死んでくれて、それでよいのだと思っています。
死の直前、私を隠してくれた父を思い出すのです。雪の上に点々と血が残っていました。その血の赤さは今も私の頭に焼き付いています。
安田少尉は近所に住んでいたから、家の構造を知っていたのではないかと思います。表玄関から入れないので裏へ回ったのでしょう。
兄二人は子ども部屋に監禁されていました。母は兵士を阻止していたので私一人が戻り、父が、自分が死ぬ場面の見えるところに隠してくれたので相手も気づかなかったらしいのです。私は送り人ならぬ看取り人になりました。兵士たちが入ってくるのをちゃぶ台の後ろから私は見ていたし、引き上げるのも見ていました。ちゃぶ台には銃痕がありますが、それが私を守ってくれたのです」
和子さんが事件を目撃した部分は以上である。
これまでにも和子さんは多くの著書や講演会で当時の模様を書かれ語っているが、ご自身の口から直接に、思い出をお聞きすると活字に勝るものがある。事件の裁判記録も公開されているので、記憶に多少のずれがあるのは止むを得ないだろう。
講演のなかに「三十数名の兵士が門を乗り越えて入ってきた」とあるのは、後で知ったことだろう。
「電話の音は聞こえなかった」は、憲兵は「電話を受けている」と裁判で証言している。
その時点で反乱軍はすでに渡邉邸に到着し、憲兵は久保家などに連絡する余裕はなかったようだ。
電話を取ったのは鈴子夫人(お手伝いさんとの説もある)。夫人は二階で寝ていた「憲兵(荒井軍曹と丸山上等兵)を起こした」と語っている。二人は起こされて「寝間着を軍服に着替えた」との証言から、その時間だけ遅れを取ったのかも知れない。
「父を久保家に隠すことが出来たのではないか」とは鈴子夫人の後日談にもあり、遺族たちが語り合ったときに出た言葉ではないかと思う。
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私が前回「憲兵二人は殺害された」と書いたのは間違いでしたので、お詫びします。
「雪の上に点々と血が残っていました」とは、和子さんの忘れられぬ印象を物語る言葉だ。
雪の上の血は、安田少尉らが庭へ回って縁側から突入する途中に滴ったものと思われる。
安田少尉は、その状況を「玄関のところにて射たれた拳銃で私の右下腿部に貫通し(原文のまま)」「多分屋内から総監が射たれたものと思います」と供述し、軍刀でトドメを刺した高橋少尉の供述では「拳銃は二階からではありません。私は渡邉教育総監は拳銃の名手と聞いております。憲兵の姿は見えなかったようです」とある。
憲兵の荒井軍曹は「私は玄関階段寄りの方、丸山上等兵は応接間寄りの方から玄関入口硝子戸を通じ拳銃で応戦してから二階に上がり」と述べているので、安田少尉を射撃したのは渡邉大将なのか憲兵なのかは断定できない。
玄関では安田少尉の他に下士官二人も負傷し、安田少尉は「横によろめきながら這い出しましたが足がしびれて歩けないので、左側の庭に入って休みましたら少々歩けるようになりました」と供述している。庭の雪の上に残された血は安田少尉のものに間違いないだろう。
襲撃後、安田少尉は陸軍省官邸で手当を受けてから東京・赤坂の前田外科病院に入院した。
事件前に偵察をしたのは誰か
和子さんは「安田少尉は近所に住んでいたから家の構造を知っていたのではないか」と語っていたが、安田少尉は「渡邉邸を襲撃すると知ったのは24日だった」「決行について特に偵察は致しておりません」と供述している。
安田少尉は上荻窪2丁目13番地の義兄・富田義雄方(姉の夫で現在は上荻2-23-16辺り)に下宿していた。渡邉邸は2丁目3番地で(検察官調書に上荻窪312番地とあるのは古い地番で、現在は上荻2-13-1)の位置関係にある。
長男・誠一氏(故人)の談話に、
「私は弟と子ども部屋で寝ていたが、騒ぎがおさまるまで蒲団を被っていた。妹の和子は父が咄嗟に壁に立てかけてあったテーブルを移し、その後ろに隠したので助かった。テーブルは籃胎(台湾製)だったので弾丸が貫通しなかったらしい」
とあり、高橋少尉供述には「夫人以外に家族がいたかどうかも気づかなかった」とのことから「監禁されていた」とは和子さんの思い違いと思われる。
籃胎テーブルが台湾製ということは、錠太郎氏が教育総監になる5年前の台湾軍司令官時代に入手したのだろう。
もう一点。誠一氏は「父が襲撃される数日前、うちの木下という馬丁が荻窪の飲み屋で酒を飲んでいると、一緒になった知らない男から、おたくの大将はどこで寝ていますか、と訊かれたというのを(馬丁が)あとになって話した」と語っている。
長女の久保夫人の談話にも「荻窪の飲み屋で馬丁に父の寝ているところを訊いたという見知らぬ男は、もしかすると安田少尉だったかも知れません」とある。
馬丁の木下さんに声を掛けた男とは誰だったのか。安田少尉は「偵察はしていない」と言う。
松本清張・著『昭和史』に内務省警保局『特高外事月報』からの引用として、浅草の香具師が渡邉教育総監の暗殺を企て1月22日から一週間以内の決行準備中に検挙されたという話が載っている。それによると何人かの手下が動いているとあるので、荻窪の飲み屋で探っていたのは、この香具師の手下ではないか。荻窪の飲み屋は何処だったのか、当時を記憶されている方に伺う以外はないようだ。
井伏鱒二・著『荻窪風土記』には、町内の高井戸生まれの木下という鳶職の話として「渡邉大将のところの別当(馬丁のこと)も高井戸生まれで木下の幼友だち」とある。鳶職の木下さんの家は四面道の近くにあった。
※位置関係は杉並の二・二六事件関連地図
「父は私を一番可愛がってくれました。
母や姉の話では、父は「軍隊は強くなければならない。しかし戦(いくさ)はするな。勝っても敗けても国は疲弊する」と言っていたそうです。
父は海外で勝った国と敗けた国を見て、敗けた国の惨めさを知ったので、その体験から生まれた言葉でありましょう。この言葉が戦争を進めようとしている軍人たちに憎まれたのだと思います。
父は「俺が邪魔なんだよ」と母に話していたそうです。
父はなぜ殺されたのか。
本来は最初のリストに入っていなかったのかも知れません。二番手で殺されたと思います。
教育総監になったので恨まれたのかも知れないのですが、戦争賛成論者でなかったことが嬉しいのです。
父はどういう訳か、私を学習院には入れないで成蹊学園に入れました。軍との関係もあったかも知れませんが、成蹊は厳しい教育でした。
成蹊では鶴岡出身の澁谷先生が6年間担任で論語を教わりました。
父は論語にある「巧言令色鮮矣仁」を好み、縁側廊下の籐椅子で膝の上に私を乗せて、巧言令色の話をしてくれました。山縣元帥の副官をしていて、元帥から「渡邉は能力はあるが書が汚い」と言われて発奮し、鵞堂流(当時の仮名書きを代表する書家小野鵞堂の流派)の書を練習していました。
書初めには父の書をなぞって金賞を貰ったことがあります。
馬は二頭いて馬丁が二人いました。父は馬に乗って成蹊まで来たことがあります」
「父の歯軋りがひどかったので、母は「余程悔しいことがあったんだね」と言っていました。
父は「歩兵の時代ではない、航空の時代だ」と主張していましたので、旭川に飛ばされたのだと思います。自分は中将で終わりと覚悟して故郷の岩倉の養子先で農業をすることを考えていたようで、そのようなときに私が生まれたのです。
その父が昭和4年に航空本部長になり、ついで台湾軍司令官になりました」
「父は大将になって荻窪に家を建てました。
旭川から青山そして台湾、その後、荻窪四面道近くの大きな家をお借りしていました。
柳井さんの設計で家を建てているとき、父と一緒に四面道の家から見に行ったことがあります。
大将になって宮中から帰ってくるとき、ボンボンなどを軍服のポケットから出して私にだけくれました。
父が私に看取られて亡くなったのは悲しい思い出ですが(ボンボンを私だけが貰ったのは)私の特権だったと思います。
父は小牧の農家・和田家の長男で、母の実家・渡邉家に養子で入りました。
小学校4年のあと百姓をやらされて中学へ行けず、金の掛からない士官学校へ入ったと言います。父だけが着物姿で受験を希望したので町役場では3回拒まれたそうです。
士官学校から陸大に入り、恩賜の軍刀を得た努力の人で、軍人になってからは給料の半分は丸善への支払いで勉強家でした」
講演(父の思い出)を聞いて
以上は和子さんが父・錠太郎について語った内容です。
「父は二番手で殺された」とは多くの研究書が指摘し、安田少尉は24日の打ち合わせで襲撃を指示した坂井少尉から、
「遣るによい場合は遣ると言われ」、
「実際出来るとは思っていなかった」、
「渡邉総監を殺す意思はそのときまで無かった」、
「単に総監を殺すならば裏門から行けばよいということは分かっていたが、殺すのが目的でないので厳重な戸締りのある正門に向った」と供述している。
ご両親の会話で「俺が邪魔なのだ」とか、錠太郎氏の歯軋りを母親が「余程悔しいことがあったんだね」というのは、他人は聞けない内輪の話として貴重である。
「父はどういう訳か学習院ではなくて成蹊学園に入れた」とある。
学習院は戦前の皇族や華族の子弟教育機関だったが、軍人や官吏の子弟も入学できた。
一方の成蹊学園は、明治末の創立時に岩崎弥太郎の弟が出資している。岩崎一族は三菱財閥として軍隊や軍需品の輸送を一手にして軍部とは深い関係。成蹊学園入学が「軍との関係もあったかも知れない」とは、そのような背景を通じて錠太郎氏の陸軍での地位などから推察を巡らす以外はない。
荻窪に家を建てている間「四面道に大きな家を借りていた」とあるのは、私が前回の記事で触れた、戦後に元NTT寮になった唐破風玄関の家のことで、現在はマンションが建っている。
設計者・柳内平八に関する杉並区立郷土博物館の講演会『渡邉錠太郎邸と杉並の近代建築』平成21年3月22日で、区内の古い家屋として、この唐破風玄関の写真が映し出された。
錠太郎氏が馬に乗って吉祥寺の成蹊学園まで行ったのは、どの道を通っただろうか。
渡邉邸は善福寺川北側の線路を挟んだ斜面上にあり、その斜面下には西荻方面に通じる道路がある。蕎麦の本村庵の前を通る古道で、錠太郎氏はこの道を西に向ったのではないか。邸宅を解体する前に錠太郎氏の孫の裕氏が、玄関先に残る馬繋ぎの跡を教えてくれた。邸宅には厩の跡がないので和子さんに伺ったところ、厩は線路の南にあったが場所は覚えていないとのことだった。
「私は昭和2年2月に旭川で生まれ、その直後に姉の子が生まれました。
父53歳、母44歳で母は恥ずかしがって産みたくなかったようです。
私は生まれなくてよい子だったのかも知れません。母をあまり好きになれませんでした。
その分だけ父が可愛がってくれたのですが、多分、母の育て方も良かったのではないかと思っています」
「私は29歳まで荻窪にいました。
家は浄土真宗ですが雙葉(ふたば)高女に入り1945年4月5日に上智大学で洗礼を受けました。
戦争中でしたので母は怒り、三日間、口を利きませんでした。
厳しい母でした。「それでも貴女はクリスチャンか」とは母の言葉でありました。
東京女子大に進み、駐留軍兵士たちに日本語を教えるアルバイトもしました。
仕事で帰宅が遅くなり、光明院を抜けるには淋しい道なので、荻窪駅から明るい青梅街道を四面道から曲がって帰宅しましたが、母はいつも四面道まで迎えに来てくれました。
母よりも私を膝の上に乗せて可愛がってくれた父への想いがあるのですが、母は1970年12月24日クリマス・イブに87歳で亡くなりました」
「『世に一億の人あり 一億の母あれど わが母に勝る母なし』
私はこの言葉が大好きです。
二・二六事件で処刑された(兵士の)遺族たちは毎年麻布の賢崇寺で慰霊祭をしており、私のところへも案内状が来ていましたが、私は父を殺した相手の供養に行く気がしませんでした。
しかし、河野司さんからの手紙を読んで、私は出席することにしました。
慰霊祭で私に丁重に挨拶をして来たのが安田少尉の弟さんでした。
そこで反乱軍の家族も被害者なのだと気がついたのです。相手の気持を察すれば、彼らも辛かったのでありましょう。」
講演(母の思い出)を聞いて
「厳しい母でした」と語るのは、夫を亡くした妻の子育てと、錠太郎未亡人としての誇りを保つ軍人の妻の姿ではないだろうか。
カトリックの雙葉高女に進学させたのは母親。
和子さんの著書『愛は溢れゆく』には、
「父の死後も私には一向に宗教心が芽生えず、法事は疎ましいものでしかありませんでした。母はそんな私を心配してか四ッ谷にあるミッションスクールに通わせることにしました」とある。
和子さんの講演は、ここから西暦表現に変わる。
1945年は昭和20年で、空襲で交通が止まり洗礼を受けに荻窪から四ッ谷まで歩いたことは著書などにも記述されている。
東京大空襲の記録では4月2日と4日に続けて爆撃を受けているので、東京の交通機関は殆どマヒ状態だったことが推測できる。
和子さんの著書『聖書との出会い』によれば、空襲のあった4月4日に荻窪から四ッ谷まで歩き「夕方になって着いた私は、一晩修道院に泊めていただいて翌朝洗礼を受けました」、「洗礼を受けた場所は上智大学」とある。
和子さんはアルバイトの帰りが遅くなって、駅からの道順を変えたと話す。
当時、荻窪駅に西口は無く、北口を青梅街道に出て商店街(現在・西友)の角を左折して白山神社前から光明院へ向う道順だ。淋しい道とあるように60年前は街灯などもあまりなくて暗い道。お寺の中を抜けるなど真っ暗に近かった。それで青梅街道を真っ直ぐ西へ四面道に向かい、ご母堂の出迎えを受けたのであろう。
和子さんは講演で一言も触れてはいないが、ご母堂も兄の誠一さんも洗礼を受けている。
河野司さんは湯河原の牧野伸顕襲撃後に自殺した河野寿大尉の兄で慰霊祭の主催者。
井伏鱒二・著『荻窪風土記』の事件当日の叙述で「渡邉さんのうちの傍には八百屋はない」とあるのを「八百屋はあった」と私は前回書いた。その方は常盤金太郎さんである。
井伏さん自身が「荻窪風土記は小説」と言っていたようなので、内容が事実とは限らない。
大方は事実だろうが、どの部分が創作なのかは、当時を知る世代以外はすべてを事実として受け止めてしまう。
長沢泰治・著『NHKと共に70年』の中に、
「その日、交番のおまわりさんが私の家に来て、父と碁を打ちながら話していたことで鮮明に覚えている。私には何のことか分からなかったが、荻窪一帯はただならぬ緊張感に包まれていた」と当日の様子が書かれている。
長沢家は400年に亘る大地主で渡邉邸の西150m程にあり、長沢泰治さんは当時21歳。
著書には、昭和初めの善福寺川が清らかだったことや、茶畑に茶摘み女が大勢集まって敷地内に茶製造の「ほいろば」小屋があったなど当時の付近の情景も述べられている。
有馬頼義・著『二・二六暗殺の目撃者』にある錠太郎氏と踏切番との交友については前回執筆した。この踏切番の青木賑吉が、
「鉄道省を退職してから渡邉邸のすぐ前で瓦せんべいの商売を始めた」、
「昭和11年2月25日の雪の朝、青木はせんべいを持って渡邉錠太郎をたずねている。そのとき不意に渡邉は家人に紙と筆を用意させ、禍福無門唯人所召と書いた。この書は娘・信子の手に渡り、信子結婚後その夫・古谷実の所蔵となった。恐らくこの書は渡邉錠太郎の絶筆であると思われる」とある。
蕎麦の本村庵の前に「せんべい屋」だったというお宅があるが、現在は普通の家屋で居住者のお名前も異なり青木賑吉とは関わりはないそうだ。有馬頼義も故人なので確かめようがない。
同著によれば「青木の娘が結婚した古谷実は後に鳶職兼植木屋になった」とある。その植木屋は上荻2丁目にあったが、古谷実さんは戦後に巣鴨警察署の警察官を勤めていた。
事件を取材した唯一の新聞記者
新聞記者で二・二六事件の取材ができたのは時事新報の和田日出吉記者だけだ。和田が首謀者の栗原中尉と昵懇(じっこん)の関係だったから。
和田日出吉は後に、身内で女優の木暮実千代と結婚して西荻窪に住んでいた。
昭和25年頃から数年だったと思うが、洋風の白い建物が庭の緑の芝生に美しく映えていた。
現在は別の方がお住まいで、和田日出吉と書かれた表札の門があった場所が車庫となっているが、白い建物は当時の侭で昔の面影を残している。
西荻北2丁目で、黒川鐘信・著『木暮実千代』に「マンションになっている」とあるのは何かの間違い。その頃、営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線・東高円寺駅の青梅街道北側に「成吉思汗(ジンギスカン)」という料理屋があり、親戚関係だった和田夫妻が昭和21年に満州から引き揚げ西荻窪に移るまではそこに住んでいた。
事件に関与した杉並区在住民間人
杉並区在住の民間人も事件に関与したとして、反乱幇助の疑いで何人か逮捕されている。民間人で死刑になった西田税も高円寺に住んでいたこともあり、高円寺や阿佐ヶ谷に住所を持つ民間人が留置されたが、処罰されていない。
※和子さんの講演内容は正確を期すため、筆記した一部について松葉襄氏が収録されたテープを聞かせていただき確認を致しました。
参考図書
・『二・二六事件裁判記録』池田俊彦:編/原書房(1998年発行)
・『二・二六事件』東京軍事法廷会議判決書
・『検察秘録 ニ・二六事件(匂坂資料)』角川書店(1989年発行)
・『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』高橋正衛:著/中公新書(1994年発行)
・『渡邉和子著作集』山陽新聞社及びPHP研究所(1988年発行)
・『松本清張と昭和史』保坂正康:著/平凡社(2006年発行)
・『昭和史発掘(7) 二・二六事件』松本清張:著/文春文庫(2005年発行)
・『荻窪風土記』井伏鱒二:著/新潮社(1987年発行)
・『二・二六暗殺の目撃者』有馬頼義:著 読売新聞社(1970年発行)
・『NHKと共に70年~わが回想の90年』長沢泰治:著/藤原書店(2008年発行)
・『木暮実千代』黒川鐘信:著/日本放送出版協会