公民館は、北区、練馬区に次いで、東京都の区部で最後に建設された。杉並区広報(昭和28年10月26日号)に、「公民館は、住民のために実際生活に即する教育、学芸、文化等に関するいろいろの事業を行い、住民の教養の向上と健康の増進をはかり、社会福祉の増進に寄与するために、社会教育法に基づいて設けられたものである。」とあり、社会教育の担う役割と、それを実践するために公民館を開設したことが報じられている。
公民館は国電(現JR中央線)荻窪駅から東に徒歩7、8分、青梅街道から南に少し入ったところに、東側が道路に面して建てられ、開館当初は都電の天沼停留所からすぐで、交通の便がよかった。
吹き抜けが象徴的で諸設備の整った講堂は、300人収容。中庭をはさんで会議室3、講座室2の延床面積654㎡の木造モルタル塗(講堂部分は鉄骨鉄筋コンクリート)の2階建てで、室内の壁は薄ピンク色に塗られ、どの部屋も採光が工夫されて、木漏れ日の中で区民が安らげるよう配慮されていた。
公民館は、前年に建設された杉並区立図書館(以降図書館)の北側に接続し、図書館とは玄関ホールから廊下でつながっていた。
戦後の荒廃と虚脱の中から、経済が少しずつ回復し、人々は自分たちの生活や地域をより良くしようと、学びそして活動を始めていった。公民館では人々の要望に応じた青年学級、成人学級、趣味の講座、映画会、子ども映画会、公民館まつりなどを行なった。その他、女性のための読書会「杉の子会」、水爆禁止署名運動の始まり、「公民教養講座」や区民自主企画・運営の講座活動など独自の歩みがあった。区民たちは各自公民館を活用し、愛着を深めていったが、老朽化により、その役割がセシオン杉並の愛称で親しまれている杉並区立社会教育センターに発展的に継承されることとなり、1989(平成元)年閉館となった。
なお、公民館には開館当初から、文化勲章を受章した伊藤清永の「春」2作品が飾られていた。