101歳の長寿を全うするまで、衰えを知らず大作を生み出し続けた画家がいた。それも杉並区の西永福に。奥村土牛(とぎゅう)という、近代日本美術史に名を連ねる人物だ。
土牛氏は明治・大正期に、近代日本画の先駆者である横山大観、小林古径、速水御舟等に影響を受けて制作。そして伝統的様式や技法をベースに、ヨーロッパからの新しい波(フランス印象派の表現)を融合させ自らのオリジナリティを築き上げた。財を成しても名誉を得ても惑わされず、老齢期になって更に絵が充実したと評される土牛氏。その探究心と情熱は、遺された作品を通して今も鮮かに伝わってくる。
人生の全てを「描くこと」に捧げ頂点を極めた土牛氏について、作品とご家族の話からその人となりを探った。
土牛氏の本名は奥村義三。「土牛石田を耕す」という寒山の詩の一節を雅号とした。命名したのは父・奥村金次郎氏である。彼は画家に憧れて名古屋から上京した青年であった。出版業を営む傍ら、芸術家の支援にも熱心だったが、そんな父親から土牛氏は夢を託され、絵を描くことを大いに推奨された。
土牛氏は1889(明治22)年、京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋)に誕生。病弱だった子供時代、唯一すべてを忘れるほど打ち込める楽しみを「絵を描くこと」に見出した。父は土牛氏16歳の時、梶田半古主催の画塾に入門させる。指導は主に塾頭格の小林古径氏から受け、師と弟子という環境の中で研鑽を積む日々を重ねていく。写生に重きを置き、主に歴史画から学んだが、並々ならぬ努力を注ぎ描写力において確かな土台を築いていった。
1910(明治43)年頃、芸術最先端雑誌『白樺』に掲載されたセザンヌの作品を観た土牛氏は、その色彩と遠近感の表現に衝撃を受ける。当時の日本美術界は、フランス印象派の波に影響を受けながら近代化への変革を図っていた。西洋の写実的な表現に戸惑いを感じる画家も多かったが、土牛氏はセザンヌの写生を極め、写実を超えた先の新たな表現に自らが目指す道を見出したのであった。大観から片ぼかしの技法、古径から写生、御舟から構図、そしてセザンヌの色彩と遠近感の表現…。それぞれから受けた影響を消化し、自らの個性として確立させた。
1929(昭和4)年、土牛氏は知り合いの紹介により仁子さんと結婚。1931(昭和6)年から1945(昭和20)年までに、男4人、女3人の子供の父親となった。
1945(昭和20)年、空襲により家を失った土牛氏は、先に疎開させていた家族を追って長野県南佐久へ向かうこととなる。新しい環境の中、美しくも厳しい自然というモチーフを得て、表現の幅を更に広げたのであった。
6年間にわたる長野県での疎開生活を終えて1951(昭和26)年、西永福に居を構えた。
土牛氏の末の子供である勝之さんにお話を伺った。
「寡黙で照れ屋で人付き合いがそれほど得意ではなかったようですが、西永福に移ってからは徐々に交流を広げ、旅行にも出かけるようになって制作にも良い刺激を受けたようです。父は文化勲章を受け一般的に有名になっても暮らしぶりを変えなかったし、おごったところなどまったくなかった。どんな人にも分け隔てなく同じように接していました。」
父親としての土牛氏との思い出について尋ねると、「とにかく絵を描くことが好きな人でしたから、ひたすら創作に打ち込んでいましたが、私が高校生の頃から高井戸にある天婦羅の『矢吹』にはよく連れて行ってもらいました。あそこの天婦羅は美味しいとよく言ってました。父はお酒が飲めなかったので、自分が食べるだけ食べたら“よし、行こう。“なんて私をせかすせっかちな面もありました。」
老年になってますます優れた作品を残したと評される土牛氏だが、その制作姿勢を物語るエピソードがある。「いわゆる画家の大先生だと、落ち着いたアトリエで他を寄せ付けない厳格なイメージがあったりしますが、父には気取ったところもないし、うちには玄関に小さな孫たちの色とりどりの靴が並んでいたりするわけです。父はそういうものを眺めて現代的なカラーのセンスなんかも研究していたようです。あらゆるものから貪欲に学び続けていました。」
土牛氏の出世を支え続けた仁子夫人、そして夫人の姉で独身だった静江さんは子供の多い土牛氏一家の経済と生活を助けた。徳島出身の姉妹が苦労の末に掴んだ幸せ、それは土牛氏の代表作「鳴門」によって一つの形となった。船からの写生を元に描いた、迫り来る渦潮を画角で切り取った作品だ。カメラマンである息子勝之さんにとってもこの作品は特に思い入れがあるようで、「瞬間を捉えた絵が何年経っても観る人に何かを残す、本質を求めて父が学んだものが結実された作品だと思います。」と語った。「鳴門」の高い評価により、土牛氏は1962(昭和37)年、文化勲章を受賞した。
土牛氏の死後、残された作品の数々は美術館をはじめとする展示施設に寄付されたものも多いが、膨大な作品数と評価額の高さに、管理・保存して行く家族の苦労は想像を絶するものとなった。父と家族の努力の成果を守って行きたい想いが、相続税をはじめとするあらゆる現実の壁に突き当たる。それらを一つ一つ乗り越えて行くことが残された者達の試練となった。
そんな苦労も経て、勝之さんは奥村土牛氏の生涯に渡る「真実」を改めて調査・研究し続けている。「父は敢えて言えば下手な画家だった。だからこそ16歳の時から生涯努力を惜しまなかった。私は芸術家というより職人と見ています。時代を経ても色褪せないものを見極めたいという思いだったのでしょう。そこには奥村土牛の哲学を感じます。」
勝之氏の父に対する愛がひしひしと伝わってきた。勝之さんは父、奥村土牛の偉業を講座や書籍等で語り続けている。
<協力>
奥村勝之さん
<出典・参考文献>
『美を楽しむ』奥村森(松庵舎資料)
『奥村土牛』近藤啓太郎(岩波書店)
『相続税が払えない 父・奥村土牛の素描を燃やしたわけ』奥村勝之(ネスコ)
奥村土牛 プロフィール
本名・奥村義三。1889(明治22)年、東京府東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋一丁目)生まれ。梶田半古に入門、当時塾頭であった小林古径に日本画を師事。
1907年 東京勧業博覧会に『敦盛』入選。
1923年 中央美術社第5回展『家』にて中央美術賞受賞、速水御舟に出会う
1927年 再興第14回院展『胡瓜畑』が初入選
1929年 再興第16回院展で『蓮池』により日本美術院院友に推挙される
1932年 日本美術院同人
1935年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科教授に就任
1936年 第1回帝国美術展『鴨』で推奨第1位を獲得
1944年 東京美術学校(現・東京芸術大学)講師
1945年 空襲で家が焼け、長野県南佐久郡穂積村へ疎開
1947年 帝国芸術院会員、日本美術院理事
1951年 杉並区の西永福へ転居
1962年 文化勲章受章
1978年 日本美術院理事長に任命
1980年 東京都名誉都民
1990年5月 長野県八千穂村に「奥村土牛記念美術館」が開館。9月 101歳7か月の長寿を全うする。従三位に叙せられる
奥村土牛 プロフィール
本名・奥村義三。1889(明治22)年、東京府東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋一丁目)生まれ。梶田半古に入門、当時塾頭であった小林古径に日本画を師事
1907(明治40)年 東京勧業博覧会に『敦盛』入選
1923(大正12)年 中央美術社第5回展『家』にて中央美術賞受賞、速水御舟に出会う
1927(昭和2)年 再興第14回院展『胡瓜畑』が初入選
1929(昭和4)年 再興第16回院展で『蓮池』により日本美術院院友に推挙される
1932(昭和7)年 日本美術院同人
1935(昭和10)年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科教授に就任
1936(昭和11)年 第1回帝国美術展『鴨』で推奨第1位を獲得
1944(昭和19)年 東京美術学校(現・東京芸術大学)講師
1945(昭和20)年 空襲で家が焼け、長野県南佐久郡穂積村へ疎開
1947(昭和22)年 帝国芸術院会員、日本美術院理事
1951(昭和26)年 杉並区の西永福へ転居
1962(昭和37)年 文化勲章受章
1978(昭和53)年 日本美術院理事長に任命
1980(昭和55)年 東京都名誉都民
1990(平成2)年5月 長野県八千穂村に「奥村土牛記念美術館」が開館。9月 101歳7か月の長寿を全うする。従三位に叙せられる