飯沼金太郎さん 3.女性操縦士の募集~両校の廃止

女性操縦士志願者募集と女子部開設

亜細亜航空学校は「亜細亜」の名にふさわしく、初年度から満州国(※1)と中華民国の入校生がいた。また、飯沼は女性の操縦士志願者にも理解を示し、航空雑誌などに募集広告を載せる際には女子学生にも入校を呼びかけている。そのこともあって、開校当時からいた馬淵テフ子、徳田雅子に続き、松本キク子、諏訪(すわ)みつゑ、木下喜代子、村上繁子が入校。女子6名となり、なかなかのにぎわいであった。
飯沼は1934(昭和9年)6月14日、国内最初の女子部を開設する。この日、日米女流飛行家親善のため来日中であった米国女性飛行家マルジェリー・ブラウンも開部式に参加し、内外に注目を集めた。

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国内初の女子部開設。上から、馬淵、松本、諏訪、村上、木下

国内初の女子部開設。上から、馬淵、松本、諏訪、村上、木下

飯沼が他校に比べ積極的に女性操縦士志願者を募集し、女子部を開設するなど女性操縦士育成にあたった理由は定かではない。憶測だが、親交のある伊藤音次郎(伊藤飛行機研究所所長)に影響を受けたのではないだろうか。伊藤は、ほかの飛行学校から「女じゃ駄目だね」と言われて入校を断られた兵頭精を受け入れ、女性操縦士第一号を誕生させた。また兵頭もその期待に応え、懸命な努力のすえに飛行操縦士の夢を貫徹している。そうした伊藤の度量と兵頭のチャレンジ精神を飯沼は直接見ており、そこに女子起用に対する答えの1つがあるのかも知れない。

両校の廃止

1938(昭和13)年6月以降、国は戦局(※2)に備え、民間航空機乗員の大量養成を図り、順次、全国に逓信省航空局管轄の航空機乗員養成所を設置する。この国策による民間航空機乗員養成の一本化は、既存の民間航空学校を閉鎖に追い込むことになった。1939(昭和14)年8月には、民間航空学校における指定飛行機練習生制度(※3)も打ち切りとなっている。さらにその年の後半より、国は全国の民間航空学校に対し、学校の廃止と施設の明け渡しを要求していく。飯沼の学校も、他の航空学校と同様に閉鎖、明け渡しを余儀なくされる。

同年10月、亜細亜航空機関学校は廃止。翌年5月、亜細亜航空学校建物並びに備品機材一切を帝国飛行協会に寄付し、引き継ぎが完了した。飯沼は、後に亜細亜航空機関学校の廃止と亜細亜航空学校の明け渡しなどを『日本民間航空史話』に事実のみ簡潔に記しているが、その無念さは計り知れないものであったであろう。
飯沼金太郎が再起をかけ、1933(昭和8)年4月に設立した亜細亜航空学校及び亜細亜航空機関学校は、国策によりわずか7年余りをもって閉校となった。飯沼金太郎の民間航空界の人材を育成する志は、ここに途絶えたのである。

亜細亜航空学校・機関学校で使用されたつなぎの作業服

亜細亜航空学校・機関学校で使用されたつなぎの作業服

飯沼のその後

亜細亜航空機関学校廃止後、飯沼は機関学校の設備を利用して、亜細亜航空機器製作所の経営に専念する。同製作所は、中島飛行機東京製作所(※4)の下請け工場として発動機部品を製作することになる。
1945(昭和20)年8月、終戦。当時の日本の航空産業は、戦時中の航空機生産工場の爆撃によって壊滅状態にあり、民間飛行機の製造はもとより飛行機の運航も禁止されていた。飯沼はいろいろと事業を考えたり、米軍に接収された洲崎の埋め立て地(亜細亜飛行学校跡地)の返却を策し、航空界再起も考えていたようだが、どちらも上手くことが運ばなかった。

1940(昭和15)年、民間航空界功労者として逓信大臣より表彰される(逓信大臣室にて)。飯沼は右奥に着席

1940(昭和15)年、民間航空界功労者として逓信大臣より表彰される(逓信大臣室にて)。飯沼は右奥に着席

飯沼は佐倉の自宅に戻ることになる。佐倉では、好きな酒をたしなみ、趣味の釣りや亜細亜航空学校の卒業生などで運営する「アジア会」に出席するなどして、平穏の中、悠々自適の生活を送った。そして1964(昭和39)年6月、飯沼は家族に看取られながら、その波瀾(はらん)に満ちた生涯を閉じたのである。享年66歳であった。

※記事内、敬称略
※1 満州国:1932(昭和7)年から1945(昭和20)年の間、現在の中国東北部に存在した国家
※2 1937(昭和12)年7月に盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発。以来戦時色が強くなり、翌年4月国家総動員法が公布される
※3 指定飛行機練習生制度:1936(昭和11)年から実施された制度。各民間航空教育学校長が推薦する生徒を航空局が選抜、授業料減額の特典を与える制度
※4 中島飛行機東京工場は、1937(昭和12)年7月、東京製作所に呼称を昇格変更。のちに荻窪製作所と改称。1945(昭和20)年4月、国は軍需工廠(こうしょう)官制を公布、中島飛行機に対し使用令書等を伝達、第一軍需工廠(長官中島喜代一)として発足する。荻窪製作所は、同工廠第23製造廠となる

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晩年に開かれたアジア会。前列左から3番目が飯沼

晩年に開かれたアジア会。前列左から3番目が飯沼

DATA

  • 出典・参考文献:

    「空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」小暮達夫(AIRFORUM『航空と文化』)
    「ひとすじのヒコーキ雲 ―飯沼金太郎の生涯-」小暮達夫(『さくらおぐるま』佐倉市教育委員会発行)                   
    『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会
    『飛行家をめざした女性たち』平木國夫(新人物往来社)
    『巨人中島知久平』渡部一英(鳳文書林)
    『日本航空史・明治大正編』財団法人日本航空協会
    『佐倉市史 巻4』佐倉市・佐倉史編さん委員会
    『航空時代 第7巻4号』航空時代社
    『練馬区史』編集兼発行者東京都練馬区
    『中島飛行機物語』前川正男(光人社)
    『日本飛行機物語・首都圏編』平木國夫(冬樹社)
    『富士重工業30年史』30年社史編纂委員会・社史編簿室
    『中島飛行機エンジン史』中川良一・水谷惣太郎共著(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(上巻)日本のルネッサンス』中村光男(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(下巻)日本の航空ミレニアム』中村光男(酣燈社)
    『戦前という時代』山本夏彦(文藝春秋)
    『航空博物館とは何か?』水嶋英治(星林社)

  • 取材:佐野昭義
  • 撮影:写真提供:大谷妙子さん
  • 掲載日:2015年11月30日
  • 情報更新日:2023年04月01日