宿町の建物(亜細亜航空機材研究所)は、1階が事務所で、2階に家族が住んでいました。奥には工場がありまして、機関学校の立て始めのころはその工場を発動機の整備の実習に使っていましたね。裏には食堂があって、大きな厨房(ちゅうぼう)もありました。女中さんが5、6人いて、大勢の従業員の食事の支度や給仕をしていました。わたくしや母もそこで食事をしていましたね。
しばらくして(昭和10年頃)、荻窪3丁目にあった床次(※2)さんの別荘を購入して、家族が住むことになりました。一千坪ぐらいありましたでしょうか。そこには、密会と言うことで、大野伴睦(※3)さんと吉田茂(※4)さんが見えました。吉田さんは、わたくしを見て「そばにおいで」とおっしゃって、一緒に写真を撮りましたが、密会ということで、誰かに没収されたそうです。吉田さんは、戦前と戦後2回お見えになりましたね。
父は中島知久平さんに大変可愛がられていたと、母から聞いておりました。知久平さんの弟の喜代一さんや乙未平さんからも同じように良くしてもらったそうです。母は知久平さんの奥さまと大変親しくさせていただき、いろいろとお話しをする間柄でした。母は「知久平さんがいなければ、亜細亜は立たなかった」と言っていましたね。奥様と母との女性同士の力、言い換えれば絆とでも申しましょうか、それも大きかったと思いますよ。
わたくしは成城の女学校を卒業して18歳ぐらいの時、一度、知久平さんの三鷹のご自宅に母とおうかがいしたことがありました。わたくしは年頃でしたので、母が奥様とお茶飲み話方々、「どこか良い嫁入り先がないかいなぁ」という感じでちょこっと話題にしていましたね。
洲崎の飛行場には、しょっちゅう遊びに行っていました。飛ぶ前には、飛行機の格納庫脇にあった航空神社にお参りしました。初めて乗ったのは8歳か9歳ぐらいでしたか。パイロットの朴さん(※5)、松本キク子さん、馬淵テフ子さんとか、皆さんに会いたくて本当に楽しみでした。松本さんは小柄でしたが男っぽい方で明るい人。馬淵さんは背が高くて見た目はお嬢さんタイプでしたね。でも話はしっかりしていて、男の工員さんに「なんだ、おまえ」なんてポンポン言っていっているのを聞いていましたよ。
飛ぶときに一番多かったのは朴さんですが、松本さん、馬淵さんの飛行機にも乗っけてもらって10分ぐらい飛びました。当時はフードがなく、顔などに風がビュウービュウー当たるのが凄かったですよ。飛ばされると大変なので、革のベルトで体を座席にくくり付けまして。でも、ともかく飛ぶのが好きで、怖いなんて少しも思わなかったですね。
父は、お酒好きの明るい性格でしたよ。ジメジメしたことが嫌いで、パッとしたことが好きでした。それと、ジッとしていられない性格だからでしょうか、多趣味でしたね。バイオリン、カメラ、車、音楽などが好きで、何かやり出すともう夢中になるタイプでしたよ。父が航空界に戻ったのは、同期の方とかが3人、飛行機事故で亡くなり、自分1人残りましたでしょう。その方々の志を継ぐためには、自分がやらなければならないと決心したのですね。
それからは、航空界の人材育成をするという志をもって邁進した印象でした。父の志は、亡くなるまで変りませんでした。わたくしは、そうした父の姿を見て尊敬していました。