飯沼金太郎さん 5.【証言者】大谷妙子さん

飯沼金太郎の長女、大谷妙子さん

飯沼金太郎は亜細亜航空学校、亜細亜航空機関学校の活動の拠点を杉並の事務所に置いたが、その2階に長女、大谷妙子さんも家族と一緒に住んでいた。そのころの父の思い出や、機関学校、洲崎飛行場の様子、中島家との親交などについて話を伺った。

大谷妙子さん

大谷妙子さん

飯沼金太郎商店と亜細亜航空学校の記憶

杉並時代の記憶があるのは3歳か4歳ぐらいで、青梅街道南側の馬橋にいたころですね。ちょっと手前にお寺がありました。家(飯沼金太郎商店)の前では、鉄くずを焼いて、純粋な鉄とそれ以外のものに分けていたのを覚えています。そのやり方は、中島の荻窪工場から教えてもらったと聞いています。
そのあと中島知久平さんの指針を受けてのことと思いますが、「荻窪に越してこないか」とのお誘いがあって、宿町(現在の杉並区上荻4丁目)に移ったのです。それから、父は駆け足で亜細亜(※1)を立てたのですが、それも知久平さんのおかげですね。

上荻3丁目の邸宅にて(写真提供:大谷妙子さん)

上荻3丁目の邸宅にて(写真提供:大谷妙子さん)

宿町の建物(亜細亜航空機材研究所)は、1階が事務所で、2階に家族が住んでいました。奥には工場がありまして、機関学校の立て始めのころはその工場を発動機の整備の実習に使っていましたね。裏には食堂があって、大きな厨房(ちゅうぼう)もありました。女中さんが5、6人いて、大勢の従業員の食事の支度や給仕をしていました。わたくしや母もそこで食事をしていましたね。
しばらくして(昭和10年頃)、荻窪3丁目にあった床次(※2)さんの別荘を購入して、家族が住むことになりました。一千坪ぐらいありましたでしょうか。そこには、密会と言うことで、大野伴睦(※3)さんと吉田茂(※4)さんが見えました。吉田さんは、わたくしを見て「そばにおいで」とおっしゃって、一緒に写真を撮りましたが、密会ということで、誰かに没収されたそうです。吉田さんは、戦前と戦後2回お見えになりましたね。

研究所2階で勉強中の大谷妙子さん(写真提供:大谷妙子さん)

研究所2階で勉強中の大谷妙子さん(写真提供:大谷妙子さん)

居間に設置した航空機エンジン(写真提供:大谷妙子さん)

居間に設置した航空機エンジン(写真提供:大谷妙子さん)

中島家との親交

父は中島知久平さんに大変可愛がられていたと、母から聞いておりました。知久平さんの弟の喜代一さんや乙未平さんからも同じように良くしてもらったそうです。母は知久平さんの奥さまと大変親しくさせていただき、いろいろとお話しをする間柄でした。母は「知久平さんがいなければ、亜細亜は立たなかった」と言っていましたね。奥様と母との女性同士の力、言い換えれば絆とでも申しましょうか、それも大きかったと思いますよ。
わたくしは成城の女学校を卒業して18歳ぐらいの時、一度、知久平さんの三鷹のご自宅に母とおうかがいしたことがありました。わたくしは年頃でしたので、母が奥様とお茶飲み話方々、「どこか良い嫁入り先がないかいなぁ」という感じでちょこっと話題にしていましたね。

女性操縦士の飛行機に搭乗飛行

洲崎の飛行場には、しょっちゅう遊びに行っていました。飛ぶ前には、飛行機の格納庫脇にあった航空神社にお参りしました。初めて乗ったのは8歳か9歳ぐらいでしたか。パイロットの朴さん(※5)、松本キク子さん、馬淵テフ子さんとか、皆さんに会いたくて本当に楽しみでした。松本さんは小柄でしたが男っぽい方で明るい人。馬淵さんは背が高くて見た目はお嬢さんタイプでしたね。でも話はしっかりしていて、男の工員さんに「なんだ、おまえ」なんてポンポン言っていっているのを聞いていましたよ。
飛ぶときに一番多かったのは朴さんですが、松本さん、馬淵さんの飛行機にも乗っけてもらって10分ぐらい飛びました。当時はフードがなく、顔などに風がビュウービュウー当たるのが凄かったですよ。飛ばされると大変なので、革のベルトで体を座席にくくり付けまして。でも、ともかく飛ぶのが好きで、怖いなんて少しも思わなかったですね。

飛行機に搭乗、飛行直前の大谷妙子さん(写真右)(写真提供:大谷妙子さん)

飛行機に搭乗、飛行直前の大谷妙子さん(写真右)(写真提供:大谷妙子さん)

航空界の人材育成に邁進(まいしん)した父

父は、お酒好きの明るい性格でしたよ。ジメジメしたことが嫌いで、パッとしたことが好きでした。それと、ジッとしていられない性格だからでしょうか、多趣味でしたね。バイオリン、カメラ、車、音楽などが好きで、何かやり出すともう夢中になるタイプでしたよ。父が航空界に戻ったのは、同期の方とかが3人、飛行機事故で亡くなり、自分1人残りましたでしょう。その方々の志を継ぐためには、自分がやらなければならないと決心したのですね。
それからは、航空界の人材育成をするという志をもって邁進した印象でした。父の志は、亡くなるまで変りませんでした。わたくしは、そうした父の姿を見て尊敬していました。

映画撮影機をのぞく飯沼(写真提供:大谷妙子さん)

映画撮影機をのぞく飯沼(写真提供:大谷妙子さん)

飯沼宅前で愛車と(写真提供:大谷妙子さん)

飯沼宅前で愛車と(写真提供:大谷妙子さん)

今でも覚えているのですよ。子供のころ父と歌った亜細亜航空学校の校歌「♪黎明告ぐる 極東の空に~」、それと口癖のように「おまえも飛行機、好きになってよね。」と言われたこと。そのせいか、わたくしは今でも飛行機が大好きです。飛行機の音が聞こえたり姿が見えると、つい見たくなるのです。どんな方がどのような旅をするのだろうかと思いを馳(は)せるのですよ。

愛用のコーヒーセット(写真提供:大谷妙子さん)

愛用のコーヒーセット(写真提供:大谷妙子さん)

大谷妙子さん プロフィール

杉並区在住。90歳。飯沼金太郎さんの長女。
女学校を卒業後、終戦まで2年間中島飛行機東京工場に勤務。空襲で破壊された直後の中島飛行機武蔵工場に行った経験をする。

※1 亜細亜航空学校、亜細亜航空機関学校
※2 床次(とこなみ)竹二郎:戦前の衆議院議員、逓信大臣
※3 大野伴睦(ばんぼく):衆議院議員、戦後衆議院議長、自民党副総裁
※4 吉田茂:戦前駐英大使、戦後内閣総理大臣
※5 朴奉祉。朝鮮半島出身。亜細亜航空学校教官、操縦士

大谷家に残る、昭和天皇(写真左)と満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の写真(写真提供:大谷妙子さん)

大谷家に残る、昭和天皇(写真左)と満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の写真(写真提供:大谷妙子さん)

DATA

  • 取材:佐野昭義
  • 撮影:佐野昭義 写真提供:大谷妙子さん
  • 掲載日:2015年11月30日
  • 情報更新日:2023年04月01日