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いづみ工芸店

2017(平成29)年に創業70周年を迎えた工芸店

荻窪駅西口を出てすぐ、荻窪すずらん通り商店街の入り口にある「いづみビル」の地階に、いづみ工芸店はある。現店主・山口浩志さん(以下、浩志さん)の父・山口泉さん(以下、泉さん)が、1947(昭和22)年に荻窪駅北口マーケットの一角で創業し、翌年現在の場所に移転した。店名は「工芸店」だが、民衆の生活から生まれた実用的な手工業品である民芸(※1)品を扱っている。かつては、岡山県の花筵(※2)、長野県松本の民芸家具、栃木県益子(ましこ)の陶器など、泉さんと浩志さん親子はすぐれた工芸品を求めて日本各地を回ったという。
戦後まもなく開店した工芸店の草分け的な存在で、棟方志功(※3)や田河水泡(※4)など著名人も通った店の歴史について、浩志さんから話を伺った。
文化人が集った店
終戦直後、泉さん一家が阿佐谷に仮住まいしていたことから、隣駅の荻窪で創業した。創業当時は店の隣によしず張り(※5)の氷屋があり、そこは文学座(※6)の稽古場に通う団員のたまり場となっていて、いつしか「いづみ工芸店」にも彼らが集うようになったという。日本全体がまだ日々の生活で精一杯だった時代、「他に集まるのに適した店がなかったのでしょう」と、文化人でにぎわっていた理由を浩志さんは推測する。創業時の店の看板デザインは、泉さんと交流のあった染色工芸家の芹澤銈介(※7)が手掛けたそうだ。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部>ゆかりの人々>知られざる偉人>棟方志功さん

すぎなみ学倶楽部>ゆかりの人々>知られざる偉人>田河水泡さん

※注釈は記事の最後に記載

現在地に移転した当時の「いづみ工芸店」(写真提供:いづみ工芸店)

現在地に移転した当時の「いづみ工芸店」(写真提供:いづみ工芸店)

「のらくろ」が書かれている「芳名帳」のページ。作者の田河水泡は近所に住んでおり、よく訪ねてきた。浩志さんは家まで送ったことがあるそうだ

「のらくろ」が書かれている「芳名帳」のページ。作者の田河水泡は近所に住んでおり、よく訪ねてきた。浩志さんは家まで送ったことがあるそうだ

「芳名帳」には、中村伸郎、杉村春子、芥川比呂志など文学座の俳優も記帳している

「芳名帳」には、中村伸郎、杉村春子、芥川比呂志など文学座の俳優も記帳している

内務官僚から工芸店の経営者に

創業者の泉さんは1902(明治35)年に東京都台東区で生まれた。東京帝国大学を卒業後、内務官僚として2~3年ごとに日本各地に赴任する生活を送った。沖縄赴任時には、当時まだ珍しかった自動車の免許を取得し、各地を巡りながら、沖縄地域の伝統工芸品の普及や地場産業の発展などについて考えていたという。
終戦後は「これからは個人が生きていく時代。官僚としての戦争責任もある」との思いから官僚職を退く。そして、赴任していた地方の産業や工芸品に関心を寄せ、民芸に関わる人々と交流を深めていた経験を生かし「いづみ工芸店」を創業した。志賀直邦(※8)の著書『民藝の歴史』には、泉さんが官僚時代から民芸に関わっていた様子が次のように書かれている。「花筵と緞通(※9)は、その前後に岡山県の経済部長をつとめた山口泉から柳(※10)への依頼で芹澤銈介と外村吉之介(※11)が模様の図案にかかわり、いまなお倉敷名産として知られています」
「親父は何か頼まれると一生懸命になって対応していました」と、浩志さんは面倒見のよかった泉さんについて語る。1954(昭和29)年に開店した「民芸茶房すゞや」(現「名代とんかつ新宿すずや」)のインテリアデザインや備品の手配なども親身になって協力した。店主が民芸好きだったこともあり、泉さんの紹介で知り合いも「すゞや」へ足しげく通うようになり、とても繁盛したそうだ。当時学生だった浩志さんは、通学途中に店の商品を「すゞや」へ納品したこともあったと当時を懐かしむ。

陶芸家の濱田庄司(右)と山口泉さん(写真提供:いづみ工芸店)

陶芸家の濱田庄司(右)と山口泉さん(写真提供:いづみ工芸店)

棟方志功作「民芸茶房すゞや」のポスターを持つ浩志さん。協力店として「いづみ工芸店」の名がある

棟方志功作「民芸茶房すゞや」のポスターを持つ浩志さん。協力店として「いづみ工芸店」の名がある

昭和の終わりとともに閉店した2店舗

1953(昭和28)年、進駐軍に接収されていた新宿伊勢丹が全館接収解除となり、「いづみ工芸店」が出店することになった。天沼に住んでいた伊勢丹社長夫人と現店主の母・園さんの縁から出た話で、百貨店に文化的な雰囲気をもたらすことを期待された。昭和40年代までは非常に忙しく、毎朝、伊勢丹へ納品に通う日々が続いた。特に、泉さんが図案に関わり、三宅松三郎商店(※12)が製作した花筵が大人気で、納品するそばから売り切れになり、商品確保の苦労が絶えなかった。
また、1960(昭和35)年には、東京都小金井市に「いづみクラフト・ハウス」を開店。荻窪の店舗では、民芸家具を販売するスペースを十分に取れなかったため、支店を出す土地を探していたところ、富士山がきれいに見える良い場所が小金井市に見つかった。建築家の山本勝巳(※13)が設計して建てた店は、銀行の支店長会議やダンスパーティーなどの会場としても利用された。「当時、他にそういう場所がなかったんだね。なんでもやって、店自体もけっこう流行りました」と浩志さんは笑う。
両店舗は1988(昭和63)年末に閉店となっている。

三宅松三郎商店の花筵。イ草一本一本がしっかりしているので、目が詰まり、重みがある

三宅松三郎商店の花筵。イ草一本一本がしっかりしているので、目が詰まり、重みがある

版画家・棟方志功と山口泉さんの交流

浩志さんが語る泉さんの思い出話には、交流があった多くの著名人の名前が挙がる。
杉並にまつわるエピソードの一つに、棟方志功を疎開先の富山県から東京へ呼び戻した話があり、棟方も自叙伝の『板極道』で泉さんに触れている。荻窪在住だった画家・鈴木信太郎が久我山に建てた新しいアトリエへ移ることを知った泉さんは、かつて荻窪のアトリエを気に入っていた棟方を呼び戻すため、中心となって支援金を募った。 その後援会の台帳「志功帖」には、柳宗悦、河井寛次郎(※14)、式場隆三郎(※15)、濱田庄司(※16)の名前に並んで、泉さんの名前がある。
また、泉さんが内務官僚として岡山に赴任していたころ、棟方が自宅に滞在したことがあった。当時、浩志さんはまだ幼かったが、日照りが続いたときに、棟方が雨乞いの儀式をして本当に雨が降ったことを覚えているという。喜びのあまり沖縄の歌を歌いながら踊り出した棟方を見て、子供心に不思議に思ったそうだ。「変わった振る舞いもあった棟方志功だけど、親父はいつも同じ態度で接して支援し続けた。人を見る目があったのでしょう」

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部>文化・雑学>読書のススメ>『板極道』

いづみ工芸店を訪れた棟方志功(左)(写真提供:いづみ工芸店)

いづみ工芸店を訪れた棟方志功(左)(写真提供:いづみ工芸店)

1931(昭和6)年に柳宗悦が創刊した雑誌『工藝』。表紙は棟方志功が手がけたり、漆仕立てもあり、一冊一冊がとても丁寧な仕事で作られている

1931(昭和6)年に柳宗悦が創刊した雑誌『工藝』。表紙は棟方志功が手がけたり、漆仕立てもあり、一冊一冊がとても丁寧な仕事で作られている

棟方志功を東京へ移住させる後援会の「志功帖」

棟方志功を東京へ移住させる後援会の「志功帖」

長く続けるのは大変だが「いろんな時代を知ることができた」

泉さんがいづみ工芸店を創業し、1972(昭和47)年に亡くなるまでの25年、その後、浩志さんが引き継ぎ70周年を迎えるまでの45年。戦時中の品不足の反動から商品を渇望された時代や高度成長期、バブル期など多忙な時期もあったが、とにかく店の営業を長く続けるのは大変だったそうだ。時代の風潮が変わり、かつては店にデパートの外商や一流ホテルなどの紹介で海外の工芸品愛好家が訪ねてきたが、現在ではネットで評判を見た外国人が気軽に寄ることもある。また、昔は篤志家(とくしか)がパトロンとして工芸家を支えていたものだが、今ではその関係も希薄になっている。工芸家について、浩志さんは「民芸の心を忘れずに制作にいそしむ職人」と表するが、工芸品については難しく考えず「自分が目で見て美しいと感じた物を自由に使ってほしい」と話す。
店には今も、昔を懐かしむ客が訪れる。「時の流れには逆らえないけれど、いろんな時代を知ることができた」という浩志さんの言葉が、閉塞(へいそく)感のある近年の日本しか知らない世代にはうらやましく感じられた。

※1 民芸:民衆の工芸品の略語。民衆の間でつくられた日常の生活用具のうち、機能的で健康な美しさをもつ工芸品とその制作活動を指す。大正末期に柳宗悦によって提唱された
※2 花筵(はなむしろ):花ござ。イ草を用いて製作されたござ、岡山県の工芸品
※3 棟方志功(むなかた しこう):1903-1975 国際版画大賞受賞など各種国際展で受賞、自らは「木版画」を「板画」と称した。晩年は荻窪に在住
※4 田河水泡(たがわ すいほう):1899-1989 漫画家。代表作は『のらくろ』
※5 よしず張り:ヨシの茎を編んで作ったすだれのようなものを店先に張っていた
※6 文学座:1937(昭和12)年に結成された日本の劇団。当時は光明院(上荻二丁目)に稽古場があった
※7 芹澤銈介(せりざわ けいすけ):1895-1984 染色工芸家。型絵染で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
※8 志賀直邦(しが なおくに):1930- 伯父は小説家の志賀直哉。その影響で、民芸について造詣が深く、柳宗悦らによって設立された東京・銀座の民芸の店「たくみ」経営者
※9 緞通(だんつう):模様を織り込んだ敷物用の織物で、日本では江戸時代から堺、赤穂、佐賀などで生産
※10 柳:柳宗悦(やなぎ むねよし)を指す。1889-1961 美術評論家。民芸運動の創始者
※11 外村吉之介(とのむら きちのすけ):1898-1993 牧師のかたわら民芸運動に参加。戦後は倉敷民芸館館長、熊本国際民芸館館長を務める
※12 三宅松三郎商店:岡山県倉敷市にあるイ草製品製造販売業。1908年(明治41)年創業以来、主に国産のイ草を利用して柄物の花ござなどを製作
※13 山本勝巳:1905-1991 建築家。俳優の山本學、圭、亘三兄弟の父
※14 河井寛次郎(かわい かんじろう):1890-1966 陶芸家。柳、濱田らと民芸運動を興した
※15 式場隆三郎(しきば りゅうざぶろう):1898-1965 精神医学者。ゴッホ研究家。放浪の画家・山下清の後援者
※16 濱田庄司(はまだ しょうじ):1894-1978 陶芸家。柳宗悦とともに民芸運動を推進。民芸陶器の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定

現店主の浩志さんは、両親、著名人、店、工芸品、そして「いろんな時代」のことを語り継ぐ

現店主の浩志さんは、両親、著名人、店、工芸品、そして「いろんな時代」のことを語り継ぐ

日本各地から集めた作家ものの工芸品を主に扱う店内の様子

日本各地から集めた作家ものの工芸品を主に扱う店内の様子

1989(平成元)年に建て替えられた現在のビル、荻窪すずらん通り商店街からビルの裏側にまわると入り口がある

1989(平成元)年に建て替えられた現在のビル、荻窪すずらん通り商店街からビルの裏側にまわると入り口がある

DATA

  • 住所:杉並区荻窪5-26-7いづみビルB1F
  • 電話:03-3391-3645
  • FAX:03-3391-3645
  • 営業時間:11:00-17:00
  • 休業:不定休
  • 出典・参考文献:

    『東京人』no.383 2017年5月号
    『民藝の歴史』志賀直邦(ちくま学芸文庫)
    『阿蘭陀まんざい』鈴木信太郎(東峰書房)

  • 取材:矢野ふじね
  • 撮影:矢野ふじね
    写真提供:いづみ工芸店
  • 掲載日:2018年10月01日
  • 情報更新日:2020年07月21日

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