葉山嘉樹(はやま よしき 1894-1945)は、プロレタリア文学作家である。
福岡県京都郡豊津村(現みやこ町)に生まれ、中学卒業後、進学のため上京。早稲田大学高等予科文科を除籍後、海員、鉄道管理局臨時雇い、セメント会社の工務係など、職を転々とする20代を過ごした。
1924(大正13)年、名古屋での労働争議で治安警察法違反に問われて逮捕される。獄中で初めて書いた小説『淫売婦』が知人の手を経て「文芸戦線」に掲載され、評判となる。作家として立つことを決意し、1926(大正15・昭和元)年、32歳の時に再上京。井荻町上荻窪(現西荻北)に居を定めた。葉山は入獄中に家族が離散するという悲惨な経験をしており、杉並でのスタートは、再婚してできた家族との新生活の始まりでもあった。この年、石炭船の労働者を描いた長編小説『海に生くる人々』が単行本で出版される。同年、日本プロレタリア芸術連盟(※1)が結成され、葉山も加盟。翌年には、杉並町高円寺(現高円寺北)に移り住んだ。この頃、雑誌「文芸戦線」編集部も杉並町高円寺(現高円寺南)に移り、集まってくる作家たちの中心的存在となった。
葉山の作品には、貧しい中で必死に生きている人たちが生き生きと描かれており、人々に寄せる思いが感じ取れる。作家になる前はロシア文学に傾倒し、自身の流転の経験をもとに、作品の構想を長年練っていたといわれている。政治思想や政治運動が全面に出がちだったプロレタリア文学の世界に、葉山は新境地を開いた。
葉山の周囲には、さまざまな人々が集った。「労働組合の幹部、菜っ葉服の労働者、地下足袋に半天姿の土方など、文学青年以外の訪問者も多かった。(中略)それは葉山の作品にひかれて来る者ばかりではなく、葉山嘉樹の人柄にひかれて来る者が多かったように思われる」(『葉山嘉樹・私史』より)と、高円寺の葉山宅に同居していた広野八郎は回想している。
しかし、プロレタリア文学運動は政治運動方針をめぐって分裂し、多くの同人が去り、残った葉山らは少数派となる(※2)。葉山が心血を注いだ無産政党運動も分裂を繰り返し、力を失っていった(※3)。
1931(昭和6)年、満州事変が勃発。東京朝日新聞に連載中だった意欲作で、ダム工事現場の労働者を描いた『移動する村落』は、時局柄、大幅に内容を削除された上、断続的な連載となった。また、反戦および滝川事件抗議の運動(※4)を起こし、監視下におかれる。この頃、葉山は、高円寺から松ノ木に移っていたが、生活はますます困窮を極めていった。
苦しい生活状況に、葉山は、東京にとどまるかどうか、選択を迫られる。低価格でできるバラック建築の家の建設を試みるが、計画は頓挫する。「かう時世が悪くなっては、どうしても、子供等の為に、半農半文の仕度をして置かなくては、我死後、子供等の拠り処が無いと思ひ煩ふ」(『葉山嘉樹日記』より)。悩んだ末、定住するのではなく流転する道を選ぶ。
1934(昭和9)年、長野県下伊那郡の鉄道工事現場に赴き、東京生活に終止符を打つ。その後、働きながらも創作活動を続け、作家としても息を吹き返す。1943(昭和18)年、49歳の時、長野県西筑摩郡山口村の開拓団の班長として満州へ渡る。現地で開拓移民を描いた作品を発表するが、1945(昭和20)年、敗戦による帰国の途中、列車の車中で病死した。
葉山の晩年の行動や作品については、国策に追従したのではないかとの批判もあったが、そうならざるを得ない人々と共にあってその姿を描いた、葉山らしい生き方だった。
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すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ>『葉山嘉樹日記』
※1 1925(大正14)年、「文芸戦線」の同人を中心に、労働者主体の文学・芸術を目指した日本プロレタリア文芸連盟が結成されたが、無政府主義派の作家たちが離れ、1926(大正15・昭和元)年、日本プロレタリア芸術連盟(機関誌「文芸戦線」)に改称した。しかし、1927(昭和2)年、政治と芸術の関係性を巡って、日本プロレタリア芸術連盟(機関誌「プロレタリア芸術」)と労農芸術家連盟(機関誌「文芸戦線」)とに分裂。葉山は後者に属した
※2 1927(昭和2)年、労農芸術家連盟は政治運動方針をめぐり、前衛芸術家同盟(機関誌「前衛」)と労農芸術家連盟(機関誌「文芸戦線」)に分裂。葉山は後者に属した。1928(昭和3)年、前衛芸術家同盟は、日本プロレタリア芸術連盟と再び合体し、当時は非合法だった日本共産党の影響下に全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成(機関誌「戦旗」)。ナップ系列のプロレタリア文学同盟がプロレタリア文学運動の主流となるが、日本共産党への弾圧と同時に壊滅状態となる。さらに主流派ではなかった葉山らも弾圧される時代状況となった
※3 1928(昭和3)年、普通選挙法の制定に伴い、多くの無産政党(労働賃金のみによって生活する層である“無産者”を代表する政党)が生まれた。1928(昭和3)年の普通選挙では、労働農民党が躍進するが、同党が連携していた日本共産党(当時・非合法)への弾圧で壊滅状態となる。左派、中間派、右派と、さまざまな無産政党が離合集散し、大政翼賛会の成立とともに消滅した。葉山は、無産大衆党、次いで社会大衆党の執行委員だった。『葉山嘉樹日記』には、杉並での選挙活動の様子が記されている
※4 葉山は、金子洋文、前田河広一郎、里村欣三ら「文芸戦線」の作家仲間と「極東平和友の会」を結成。当時、結成メンバーは杉並に暮らしていた。また、滝川事件(京都帝国大学教授・瀧川幸辰への思想弾圧事件)への抗議、言論の自由、反ファシズムを掲げ、広範囲の文化人たちと「学芸自由同盟」を結成した
『葉山嘉樹 短編小説選集』葉山嘉樹(郷土出版社)
『海に生くる人々』葉山嘉樹(岩波文庫)
『セメント樽の中の手紙』葉山嘉樹(角川文庫)
『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか プロレタリア文学』葉山嘉樹ほか(ちくま文庫)
『葉山嘉樹日記』葉山嘉樹(筑摩書房)
『日本プロレタリア文学集・8 葉山嘉樹集』(新日本出版社)
『葉山嘉樹・私史』広野八郎(たいまつ社)
『葉山嘉樹 文学的抵抗の軌跡』浅田隆(翰林書房)
『葉山嘉樹論―「海に生くる人々」をめぐって』浅田隆(桜楓社)
『プロレタリア文学史』山田清三郎(理論社)
『日本プロレタリア文学集・別巻 プロレタリア文学資料集・年表』(新日本出版社)
『海に生くる人々』(近代文学館発刊精選名著復刻全集より)
『新潮日本文学アルバム 別巻 昭和文学アルバム(Ⅰ)』磯田光一編(新潮社)