財団法人同潤会(以下、同潤会)は、1923(大正12)年の関東大震災による被災者への住宅供給を目的として、1924(大正13)年5月に設立された旧内務省の外郭団体である。青山アパート(現表参道ヒルズ)など鉄筋コンクリート造のアパートメントハウスが有名だが、それ以外にも、多くの木造住宅を手掛けていた。
杉並区には、1924年から1932(昭和7)年にかけて、方南町、西荻窪、阿佐谷、荻窪、善福寺の5カ所に木造住宅が建てられた。このうち方南町以外では、2022(令和4)年4月現在でも街並みや広い敷地に当時の面影が感じられる。
設立当初の事業計画には、被災者用住宅として普通住宅(※1)約7,000戸とアパートメントハウス約1,000戸の計8,000戸の建設が盛り込まれた。同潤会は1924(大正13)年9月27日、まず普通住宅から工事に着手した。
一方、震災直後に建てられたバラック(※2)では、長引く避難生活による風紀・衛生面などの問題が発生し、復興事業の妨げになると見た政府は、急きょバラックの撤去を決定。被災者の行き先として、同潤会に新たな仮住宅建設の命令が下った。普通住宅を着工してからわずか2日後のことであった。『同潤会十八年史』には「この仮住宅を電撃的に建設するには非常なる努力が払われ、徹夜作業をもした」とあり、普通住宅と仮住宅の同時建設に大変苦労した様子がうかがえる。
同潤会は、直ちに東京市内7カ所の土地を借り入れ、同年11月末までに総戸数2,160戸の仮住宅を完成させた。
杉並には、1925(大正14)年3月、西荻窪住宅(※4)が竣工した。所在地は豊多摩郡井荻村大字上井草字北原(現善福寺2丁目)。2階建ての長屋形式で、店舗付きの住宅もあった。区画内には、児童遊園、テニスコート、娯楽室も併設され、管理事務所は巡査駐在所も兼ねていた。
申し分ない居住環境に思えるが、他の普通住宅と同様、応募状況は芳しくなかった。同年4月12日付の読売新聞(前項の画像参照)には、当初バラック居住者のみだった申し込み対象を一般被災者に拡大しても、まだ7戸しか居住していないとある。当時の杉並が、いかに遠隔の地と認識されていたかがうかがえよう。
現在は、ほぼそのままの区画に家が並び、児童遊園も残る。四つ辻(つじ)には商店もあって、かつての雰囲気を感じさせるような独特のたたずまいだ。
1927(昭和2)年、同潤会は分譲住宅事業に進出した。震災後の住宅供給にもひとまずめどが付き、時代の要望は住宅の量から質へ、人々の意識も借家から持ち家(※5)へと変わり始めた頃である。それを受け、同潤会は「最も時代に適した文化的合理的なる小住宅の模範」の提供にかじを切った。
土地の選定にあたっては「事情の許す限り空気清浄にして高燥なる郊外」「都心への交通至便な而かも地代の低廉なる土地」とし、あえて、これまで遠隔の地として敬遠されてきた郊外に文化的住宅の建設を試みた。
まず、1928(昭和3)年度に横浜で30戸、東京で30戸を竣工してみたところ、申し込みが殺到したため、翌年度から本格的に事業をスタート。当初の分譲住宅は「勤人向分譲住宅」であったが、時勢に応じて「職工向分譲住宅」も手掛けるようになった。最終的には、東京と横浜の35カ所に竣工し、杉並には「勤人向分譲住宅」が3カ所に建てられた。
阿佐ヶ谷分譲住宅は1929(昭和4)年3月、本格的な事業開始前のプロトタイプとして竣工した。所在地は、豊多摩郡杉並町大字天沼(現本天沼2丁目)で、平屋建て18戸と2階建て4戸からなる計22戸。『昭和四年度事業報告』によると、「甲号地」と「乙号地」の2カ所に分けて建てられ、乙号地は「二六荘」とも呼ばれた。同年5月4日付けの「杉並町報」には「淋しい地とされてゐた北部に堂々たる同潤会の建物がたち既でに人が住つてゐる」と紹介されている。
ちょうど蓮華寺を取り囲むように位置するこの2カ所には、今でも敷地の広い家がいくつかあるものの、当時の面影は残されていない。
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荻窪分譲住宅は、本格的な分譲住宅事業展開の皮切りとして、1929(昭和4)年11月に竣工した。所在地は、阿佐ヶ谷分譲住宅の甲号地に隣接する、豊多摩郡杉並町大字天沼(現本天沼2丁目)。平屋建て43戸と2階建て2戸であった。エリア内には一本杉やテニスコートがあり、阿佐ヶ谷分譲住宅の甲号地と併せて「一杉(いっさん)荘」と呼ばれた。
唯一残っていた平屋建ての住宅は、残念ながら2022(令和4)年3月に取り壊されたが、その直前に建物の内部を見る機会に恵まれた(最終項写真参照)。各居室の独立性を保ちつつ、無駄のない動線を作る長い廊下や、広い庭からの採光を存分に取り込む広縁など、従来の日本家屋を変えようとした分譲住宅の設計要旨が、余すことなく具現化された住宅であった。
善福寺分譲住宅は1932(昭和7)年9月竣工。所在地は豊多摩郡井荻町大字上井草(現善福寺1丁目)で、大部分が善福寺風致地区(※6)に属し、善福寺池にも近い「武蔵野の自然林に囲まれた理想的な郊外住宅地」(『昭和六年度事業報告』)であった。平屋建て31戸と2階建て3戸からなり、前年の懸賞付き設計募集で選ばれた図案を取り入れた新型住宅も登場。中には洋風の外観のものもあり、バラエティーに富んだ住宅地であったという。当時の東京朝日新聞が当選図案を連載で掲載したり、婦人雑誌に外観や間取り付きで紹介されたり、一般にも注目されていた。
井草八幡宮南側では、今でも敷地の広い家が見られ、大谷石の塀の一部を残す家と、竣工当時のままと思われる家が1軒残っている。
1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、その影響で全国に資材と労力不足による住宅難が広がり始めた。政府は住宅不足解消を最重要課題とし、その対応にあたる住宅営団の設立を決定。同潤会は、全事業を住宅営団に引き継ぐことになり、1941(昭和16)年5月に解散し、18年間にわたる使命を終えた。
解散に際して、専務理事の宮澤小五郎氏は、仮住宅と普通住宅でのさまざまな苦労を振り返りながらも「此の際の苦心が始終我々を教育し、今日酬いられて居ると思うのであります」(『同潤会十八年史』)と述べている。
東京23区で同潤会の木造住宅が建てられた13区のうち、仮住宅、普通住宅、分譲住宅すべての建設地となったのは、杉並区のほか江東区だけであった。震災後の杉並に同潤会が大きく関わっていたことは、社会的、文化的な観点からも興味深く、意義のある歴史といえよう。
※1 普通住宅:『同潤会十八年史』によれば、事業計画ではアパートメントハウスと区別するために木造住宅の呼称を用いていたが、その後、仮住宅などの建設に伴い何度か呼称が変わり、最終的に普通住宅と呼ぶようになったという
※2 バラック:学校の焼け跡や公園などに建設された被災者収容のための応急仮設住宅
※3 授産場:震災被災者の生活安定を図るため、副業を紹介する救済福祉施設
※4 西荻窪住宅:普通住宅については、同潤会資料でも「○○住宅」「○○普通住宅」の2つの呼称が混在しているが、ここでは『大正十五年度 昭和元年度事業報告』における呼称を用いた
※5 持ち家:分譲住宅は、これまでの借家方式ではなく、月賦を払い終わると家屋と地上権(借地権の一種)を得られる仕組みだった(後期の分譲住宅と職工向分譲住宅は土地付き分譲)
※6 風致地区:都市の豊かな自然環境を維持するために、自治体が保護を行う地域
『同潤会十年史』(同潤会)
『同潤会十八年史』(同潤会)
『仮住宅事業報告』(同潤会)
『大正十四年度事業報告』(同潤会)
『大正十五年度 昭和元年度事業報告』(同潤会)
『昭和四年度事業報告』(同潤会)
『昭和六年度事業報告』(同潤会)
『昭和七年度事業報告』(同潤会)
『同潤会と其の事業』(同潤会)
『主婦之友第16巻第11号』(主婦之友社)
『住宅営団の栞』(住宅営団)
『新天沼・杉五物がたり 付荻窪物語』杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会
「杉並町報」1929年5月4日付
「読売新聞」1925年4月11日付
「読売新聞」1925年4月12日付
「東京朝日新聞」1929年11月12日付
「東京朝日新聞」1931年10月1日付
「東京朝日新聞」1932年9月10日付
「佐々木家文書」東京都北区立中央図書館蔵
「杉並(天沼・本天沼地区)三世代遊び場マップ 昭和初期」杉並子どもの遊びと街を考える会
「同潤会の分譲住宅事業-中期同潤会への移行と内務省の住宅思想-」澤内一晃
「同潤会の独立木造分譲住宅事業に関する基礎的研究」内田青蔵、安野彰、窪田美穂子
「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923関東大震災【第3編】(内閣府)
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_3/index.html