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林芙美子さん

人々の心を引き付け続ける女流作家

林芙美子(はやし ふみこ 1903-1951)は山口県下関市出身の小説家である(※1)。
幼少期、行商を営む母、養父と共に、西日本各地を転々とした。自力で学費を稼ぎ、尾道市立高等女学校(現広島県立尾道東高等学校)に進学。女学校時代、図書館で読書に没頭し、短歌や詩を書き始める。
1922(大正11)年、19歳で、東京の大学に進学した恋人を追って上京するも、関係が破局。関東大震災に遭遇し、一時、尾道に戻るが再上京した。25歳くらいまで、女中、女工、店員、女給、夜店商人など、職を転々としながら苦しい日々を送った。

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林芙美子さん。母・キクと縁側にて(写真提供 :新宿歴史博物館)

林芙美子さん。母・キクと縁側にて(写真提供 :新宿歴史博物館)

その間にも、文学への情熱は失わなかった。アナーキズム系の文学仲間と交流し(※2)、徳田秋声などの作家を訪ね、出版社に詩を売り込みに行った。また、はやりの子供向け雑誌の原稿を書き、生活費を稼いだ。
恋の遍歴の後、生涯の伴侶となる画家志望の手塚緑敏と出会う。2人は、1927(昭和2)年1月、高円寺(現杉並区梅里)の西武鉄道車庫裏の山本方に間借りし、同年5月に和田堀(現杉並区堀ノ内)の妙法寺境内の浅加園(※3)の貸家に移る。以降、1930(昭和5)年5月、上落合(現東京都新宿区上落合)に転居するまでの約3年間、杉並で過ごした和田堀時代が、林にとって大きな転機となった。

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林芙美子の和田堀時代

浅加園での暮らしは貧しく「結婚生活に這入っても、生活は以前より何層倍も辛く、米の買える日が珍しい位で」と、後に『文学的自叙伝』に書いている。
1928(昭和3)年、すべて女性の手による文芸誌で女性解放を共通のテーマとし、数多くの女流作家が参加した「女人芸術」が創刊され、林が持ち込んだ詩、『黍畑(きびばた)』が8月号に掲載される(※4)。
同年、日記と詩を織り交ぜた作品が『放浪記』と命名され、10月号から連載が始まる。それが評判となり、改造社の編集者の目に留まって(※5)、雑誌「改造」で1929(昭和4)年10月号に炭坑のルポルタージュ記事(『九州炭坑街放浪記』)が掲載され、単行本化の話も進んだ。また、同時期には後の方向性を示した小説『山裾』が朝日新聞に掲載され、長年の夢だった詩集『蒼馬を見たり』の刊行が実現した。
林の和田堀時代は、貧乏詩人から売れっ子の小説家へ転身する始動期となった。

妙法寺境内浅加園にて(写真提供 :新宿歴史博物館)

妙法寺境内浅加園にて(写真提供 :新宿歴史博物館)

林が暮らした浅加園があった辺り(撮影:2022年12月)

林が暮らした浅加園があった辺り(撮影:2022年12月)

大ベストセラー『放浪記』の誕生

『放浪記』は、1930(昭和5)年7月、改造社の新鋭文学叢書(そうしょ)の1冊として出版され大ベストセラーとなり、以降、現在もロングセラーを続けている。
原型は、再上京した頃からつけていた歌日記で、出版社に持ち込んだこともあるが採用されなかった。「女人芸術」では、1928(昭和3)年10月号(「秋が来たんだ」)から、1930年10月号(「女のアパッシュ」)まで連載された。自身の体験をベースに、苦境にめげず、奔放自在に生きる女性主人公が描かれている。幼い頃から培われた林の庶民性、人生観が、詩人としての感性、文章の巧みさによって表現された作品となった。
単行本には、あらたに「放浪記以前」が序として加えられ、内容も再構成された。多くの読者の共感を得て、同年11月には『続放浪記』が出版された。さらに続編の計画もあったが、検閲(※6)を配慮し、『放浪記 第三部』として出版が実現したのは、戦後の1947(昭和22)年だった。

『放浪記』(復刻本)(日本近代文学館発刊 精選名著複刻全集)

『放浪記』(復刻本)(日本近代文学館発刊 精選名著複刻全集)

敗戦後の人々の虚脱感と再出発を描く

詩人からリアリズム小説の作家に不断の努力で転身した林は、『牡蠣』『稲妻』など女性の生き方を描き続け、33歳にして全集が刊行される作家となった。林は自身の創作信条について「小説は工夫や技術ではありません。その作家の思想なのです。人間をみる眼の旅愁を持つか持たぬかの道です」(『創作ノート』より)と書いている。
また、行動的でたびたび海外に渡り、紀行文を執筆。日中戦争のさなかには、国家的熱狂にのり、軍に同行し『戦線』など戦地のルポルタージュも執筆し、マスコミにもてはやされた(※7)。
1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まると、『放浪記』などが発禁処分となり、以降、敗戦まで小説の筆を絶つ。1945(昭和20)年、疎開先から下落合の家(※8)に戻ると、『うず潮』『晩菊』など、敗戦後の傷ついた庶民を描く作品を次々と発表した。南方からの引揚者の女性の苦悩と再出発を描いた長編小説『浮雲』は、大ベストセラーとなった。
林は、小説を書くにあたり取材を欠かさなかった。1951(昭和26)年、持病の心臓病が悪化している中、『めし』執筆のための取材旅行に赴き、帰宅した数カ月後、自宅で発作を起こし、47年の波瀾(はらん)万丈の生涯を閉じた。

発禁が解け、すぐに復刊された『放浪記』『續 放浪記』(改造社)

発禁が解け、すぐに復刊された『放浪記』『續 放浪記』(改造社)

『浮雲』(新潮社)

『浮雲』(新潮社)

※1 福岡県門司市(現福岡県北九州市)出身の説もある
※2 東京都文京区白山の南天堂書店2階の集まりに参加。萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らと交流。また、平林たい子、八木秋子、若杉鳥子らと、婦人作家グループ「社会文芸連盟」を結成した。その関係で「文芸戦線」に寄せた詩「女工の唄へる」が、出版物に掲載された最初の作品となった
※3 浅加園:頓挫した遊園地建設現場の労働者のバラックを貸屋にしたもの。平林たい子は、営業許可の下りなかった料亭の建物だったと回想している
※4 林は油絵の具で模様を描いた着物に帯をしめ、浅加園の花で作った花束をかかえ女人芸術社を訪ねた。林の詩を高く評価したのは、「女人芸術」の後援者、三上於菟吉だった。『放浪記』の命名も、三上による
※5 編集者の恋人が「女人芸術」愛読者で、編集者に助言した。林は、後に「ある日、大きな鞄をさげて一人の紳士が私を訪れて来ました」と、その時の驚きを『文学的自叙伝』に書いている
※6 検閲:公権力が出版物などを精査し、不適当と判断したものを取り締まる行為
※7 1937(昭和12)年、南京攻略戦に際し、「東京日日新聞」の特派員となり従軍、「女流の一番乗り」と宣伝された。翌年、漢口攻略戦に際し、内閣情報部の「ペン部隊」に加わり漢口に一番乗りした
※8 1939(昭和14)年、下落合(現東京都新宿区中井)に数寄屋造りの自宅を新築。生涯を過ごした。現在、新宿区立林芙美子記念館として保存、公開され、アトリエだった部屋は資料館となっている。その他、広島県尾道市におのみち林芙美子記念館などがある。広島県尾道市、山口県下関市、福岡県北九州市、鹿児島県鹿児島市、大阪府大阪市、福岡県直方市、熊本県天草郡など、ゆかりの地には文学碑が建立されている

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新宿区立林芙美子記念館(外部リンク)

 自宅書斎(新宿区立林芙美子記念館にて撮影)

自宅書斎(新宿区立林芙美子記念館にて撮影)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『林芙美子全集』林芙美子(文泉堂出版)
    『林芙美子の生涯 うず潮の人生』板垣直子(大和書房)
    『明治・大正・昭和の女流文学』板垣直子(桜楓社)
    『石の花 林芙美子の真実』太田治子(筑摩書房)
    『林芙美子の昭和』川本三郎(新書館)
    『女流文芸研究』馬渡憲三郎編(南窓社)
    『平林たい子全集 10』平林たい子(潮出版社)
    『評伝 長谷川時雨』岩橋邦枝(筑摩書房)
    『改造社の時代 戦前編』水島治男(図書出版社)
    『名著複刻全集 近代文学館 作品解題 -昭和期-』日本近代文学館編(日本近代文学館)
    『新潮日本文学アルバム34 林芙美子』林芙美子(新潮社)
    『生誕100年記念 林芙美子展』今井英子監修(新宿歴史博物館ほか)
    『林芙美子随筆集』林芙美子(岩波書店)
    『放浪記』林芙美子(日本近代文学館発刊 精選名著複刻全集)
    『放浪記』林芙美子(改造社)
    『續 放浪記』林芙美子(改造社)
    『浮雲』林芙美子(新潮社)

  • 取材:井上 直
  • 撮影:井上 直
    写真提供:新宿歴史博物館
  • 掲載日:2023年02月06日