開高健さん

杉並区井草の自宅前で家族と。1972(昭和47)年、41歳のころ(写真提供:開高健記念会)

杉並区井草の自宅前で家族と。1972(昭和47)年、41歳のころ(写真提供:開高健記念会)

杉並から世界へ。縦横無尽の活躍

自己の心理をえぐるような描写で書いたかと思えば、多様な文体を思いのままに操り外の世界を色鮮やかにルポルタージュする。開高健(かいこう たけし 1930-1989)は昭和を代表する作家の一人に違いないが、その生涯を「作家」と一言で片付けるのはいささか難しい。世界中に獲物を求めた釣り人でもあったし、美食・美酒に人一倍うるさい食い道楽でもあった。と思えば従軍記者としてベトナムの戦地奥深くまで潜入したりと、文字通り世界中を自らのフィールドとした。そんな開高が旅から帰るすみかが杉並にあったことは、意外と知られていない。

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すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の文士たち(概要)

東京都千代田区神田にあった旅館「駿台荘」にて(写真提供:開高健記念会)

東京都千代田区神田にあった旅館「駿台荘」にて(写真提供:開高健記念会)

奥日光・丸沼で65cmのニジマスを釣る(写真提供:開高健記念会)

奥日光・丸沼で65cmのニジマスを釣る(写真提供:開高健記念会)

戦争と極貧の少年期

開高は満州事変の勃発する1年前、1930(昭和5)年に大阪府大阪市で生まれた。小学校教員の父と母、妹との穏やかな生活は、12歳の時、父親の病死により一変する。
戦中は母のなけなしの着物を芋と交換してその日その日をやり過ごし、戦後は開高が中学校に通いながらパン屋・旋盤工場のアルバイトをして家計を支えた。昼食を水だけで済ませる開高を案じた同級生からパンを差し入れられたこともあり、後に『輝ける闇』で「感謝よりも絶望」を感じ、「餓死体にはるかに接近したのだと宣告されたような気もした」と振り返っている。

奈良公園にて。前列左から父、開高、妹を抱く母(写真提供:開高健記念会)

奈良公園にて。前列左から父、開高、妹を抱く母(写真提供:開高健記念会)

写真下のフランス語は開高の直筆。「21歳の秋」の意(写真提供:開高健記念会)

写真下のフランス語は開高の直筆。「21歳の秋」の意(写真提供:開高健記念会)

名コピーライターから芥川賞作家へ

大阪市立大学に入学した開高は、作家を目指し同人誌に作品を発表するようになる。在学中に同人仲間で詩人の牧羊子と結婚し、長女をもうける。卒業後は寿屋(現サントリー)に宣伝部員として入社。イラストレーターの柳原良平とタッグを組んだトリスウイスキーの広告など、数々の名キャッチコピーを手掛け、編集長を務めたPR誌「洋酒天国」も異例のヒットとなった。一方で、作家になる夢も捨てておらず、同人誌での執筆活動も続けていた。
宣伝部の東京移転を機に杉並区向井町(現杉並区下井草)の社宅へ転居。1958(昭和33)年、『裸の王様』で第38回芥川賞を受賞した際には、この社宅に多くの取材記者が押しかけたという。

趣向を凝らした「洋酒天国」の表紙(出典:『開高健の本棚』)

趣向を凝らした「洋酒天国」の表紙(出典:『開高健の本棚』)

芥川賞授賞式にて。候補には大江健三郎らの名があった(写真提供:開高健記念会)

芥川賞授賞式にて。候補には大江健三郎らの名があった(写真提供:開高健記念会)

ノンフィクション分野での才能開花

受賞後、嘱託社員となった開高は、杉並区矢頭町(現杉並区井草)に一軒家を構える。転居後の数年間はスランプに悩んだが、この期間にパリ・モスクワなど国内外を訪問・取材したことがノンフィクション分野の才能を開花させるきっかけとなった。1963(昭和38)年10月から「週刊朝日」に約1年連載した「ずばり東京」では、急速な近代化により混沌(こんとん)とする東京の姿をありありと切り取り、高い評価を得た。本記事では西武新宿線井荻駅近くの自宅近辺の様子にも触れ、畑ばかりで水道もガスも通っておらず、井戸で生活水を得ていると記している。

杉並区矢頭町(現杉並区井草)へ転居した際、知人へ送ったはがき

杉並区矢頭町(現杉並区井草)へ転居した際、知人へ送ったはがき

1958(昭和33)年、自宅で家族と(写真提供:開高健記念会)

1958(昭和33)年、自宅で家族と(写真提供:開高健記念会)

死と隣り合せのベトナム従軍

世界中を旅した開高が特に強く関心を持ったのが、南北の戦争が泥沼化するベトナムだった。34歳で従軍記者としてベトナムを訪れた際には、ゲリラの襲撃により所属部隊がほぼ全滅するなど壮絶な体験をする(200人の部隊のうち、生き残ったのは17人だけだった)。自らの目で見て、肌で感じた生々しい戦場の姿が、ルポ『ベトナム戦記』だけでなく、『輝ける闇』『夏の闇』といった文学作品へ昇華していく。反戦活動にも積極的に参加し、その後も2回訪れるなど、ベトナムは開高にとって生涯をかけたテーマとなった。

記念文庫内に展示されているベトナム滞在中の写真と関連書籍

記念文庫内に展示されているベトナム滞在中の写真と関連書籍

杉並の人々との交流

文壇との交流は少なかったが、荻窪に住む井伏鱒二とは釣りという共通の趣味があり、親しくしていた。師と仰ぐ井伏に自前の真っさらな巻物を渡し、釣りの極意を書くよう懇願したこともあったという。井伏は依頼に応じ、開高は完成した「秘伝の書」を生涯大事にした(神奈川近代文学館に所蔵)。ともに酒豪の二人は荻窪周辺でよく酒を酌み交わしたようだ。
井荻駅南口から徒歩約1分のところに、開高が通っていたそば屋「喜久家」がある。「ふらりと一人で訪れては”チャーシューメン!”と良く通る声で注文してくれた」と、当時を知る店員は語る。家族連れで来店することもあり、明朗で話し好きな妻と多くを語らない開高の姿が対照的だったという。
44歳のころ、神奈川県茅ヶ崎市に仕事場を設け生活拠点を徐々に移していくが、住民票は最後まで杉並区に置いたままだった。

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巻物は来月届ける、と書かれた井伏からの手紙(写真提供:開高健記念会)

巻物は来月届ける、と書かれた井伏からの手紙(写真提供:開高健記念会)

生前よく通ったそば屋「喜久家」。当時と変わらず中華系メニューも健在

生前よく通ったそば屋「喜久家」。当時と変わらず中華系メニューも健在

杉並に開高文学の軌跡を残す「開高健記念文庫」

井草にあった旧開高宅は現在、開高文学の発信基地「開高健記念文庫」として公開されている。処女作『パニック』や、写真をふんだんに使用した釣りルポ『オーパ!』シリーズなど、全ての著作を所蔵。編集長を務めたサブカルチャー雑誌「面白半分」や、知人らによる回顧録などの関連書籍も充実しており、閲覧可能だ。必見は茅ヶ崎の自宅から移設した愛蔵書で、開高が実際に読んだ証しとしてページの折り目もそのまま残されている。欲しがる客にはいくらでも本をあげてしまったため一部が欠けているシリーズ物もあり、開高の人柄が感じられる。
公益財団法人開高健記念会が運営しており、茅ヶ崎には愛用品などを収蔵した「開高健記念館」がある。

開高が本に付けた折り目。上から下からと、本によってばらばらなのも興味深い

開高が本に付けた折り目。上から下からと、本によってばらばらなのも興味深い

開高健記念文庫の館内。著作や関連書籍が壁一面に並ぶ

開高健記念文庫の館内。著作や関連書籍が壁一面に並ぶ

開高作品ビギナーにお薦めの2冊

開高健記念会事務長・森さんと理事・平松さんに、お薦めの開高作品を伺った。
森さんは、開高が食道がんで入院中に命懸けで書き上げた絶筆『珠玉』。書籍化されたのは、58歳でこの世を去った後だった。出版社勤務時代に「開高番」として闘病の苦しさを身近で見守り続けた森さんならではのチョイス。
平松さんは、毎日出版文化賞を受賞した『輝ける闇』。ベトナム戦地で見た夕日の赤さや銃口の焦げ付く匂いまでもが、目の前に迫るような筆致で描かれており「開高作品の醍醐味(だいごみ)を十分に味わえる」という。
小説・ルポ・対談集などほかにも評価の高い作品は多くあるが、どれから読もうか悩むのなら、まずは記念文庫を訪ねてみるのも一案だ。出迎えたスタッフが丁寧に解説してくれるだろう。

▼関連情報
公益財団法人開高健記念会>開高健記念文庫(外部リンク)

記念文庫にて。左から開高健記念会事務長・森さん、理事・平松さん

記念文庫にて。左から開高健記念会事務長・森さん、理事・平松さん

1階が記念会事務所、2階が記念文庫となっている

1階が記念会事務所、2階が記念文庫となっている

DATA

  • 出典・参考文献:

    「開高健の世界」(公益財団法人開高健記念会)
    『パニック・裸の王様』開高健(新潮社)
    『ずばり東京』開高健(朝日新聞社)
    『輝ける闇』開高健(新潮社)
    『夏の闇』開高健(新潮社)
    『オーパ!』開高健(集英社)
    『珠玉』開高健(文藝春秋)
    『白いページ』開高健(潮出版社)
    『開高健の本棚』(河出書房新社)
    『「面白半分」の作家たち ―70年代元祖サブカル雑誌の日々』佐藤嘉尚(集英社)

  • 取材:今川いくら
  • 撮影:今川いくら、TFF
    写真提供:開高健記念会
    取材日:2022年12月22日
  • 掲載日:2023年03月06日