自己の心理をえぐるような描写で書いたかと思えば、多様な文体を思いのままに操り外の世界を色鮮やかにルポルタージュする。開高健(かいこう たけし 1930-1989)は昭和を代表する作家の一人に違いないが、その生涯を「作家」と一言で片付けるのはいささか難しい。世界中に獲物を求めた釣り人でもあったし、美食・美酒に人一倍うるさい食い道楽でもあった。と思えば従軍記者としてベトナムの戦地奥深くまで潜入したりと、文字通り世界中を自らのフィールドとした。そんな開高が旅から帰るすみかが杉並にあったことは、意外と知られていない。
大阪市立大学に入学した開高は、作家を目指し同人誌に作品を発表するようになる。在学中に同人仲間で詩人の牧羊子と結婚し、長女をもうける。卒業後は寿屋(現サントリー)に宣伝部員として入社。イラストレーターの柳原良平とタッグを組んだトリスウイスキーの広告など、数々の名キャッチコピーを手掛け、編集長を務めたPR誌「洋酒天国」も異例のヒットとなった。一方で、作家になる夢も捨てておらず、同人誌での執筆活動も続けていた。
宣伝部の東京移転を機に杉並区向井町(現杉並区下井草)の社宅へ転居。1958(昭和33)年、『裸の王様』で第38回芥川賞を受賞した際には、この社宅に多くの取材記者が押しかけたという。
文壇との交流は少なかったが、荻窪に住む井伏鱒二とは釣りという共通の趣味があり、親しくしていた。師と仰ぐ井伏に自前の真っさらな巻物を渡し、釣りの極意を書くよう懇願したこともあったという。井伏は依頼に応じ、開高は完成した「秘伝の書」を生涯大事にした(神奈川近代文学館に所蔵)。ともに酒豪の二人は荻窪周辺でよく酒を酌み交わしたようだ。
井荻駅南口から徒歩約1分のところに、開高が通っていたそば屋「喜久家」がある。「ふらりと一人で訪れては”チャーシューメン!”と良く通る声で注文してくれた」と、当時を知る店員は語る。家族連れで来店することもあり、明朗で話し好きな妻と多くを語らない開高の姿が対照的だったという。
44歳のころ、神奈川県茅ヶ崎市に仕事場を設け生活拠点を徐々に移していくが、住民票は最後まで杉並区に置いたままだった。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の文士たち>井伏鱒二さん
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井草にあった旧開高宅は現在、開高文学の発信基地「開高健記念文庫」として公開されている。処女作『パニック』や、写真をふんだんに使用した釣りルポ『オーパ!』シリーズなど、全ての著作を所蔵。編集長を務めたサブカルチャー雑誌「面白半分」や、知人らによる回顧録などの関連書籍も充実しており、閲覧可能だ。必見は茅ヶ崎の自宅から移設した愛蔵書で、開高が実際に読んだ証しとしてページの折り目もそのまま残されている。欲しがる客にはいくらでも本をあげてしまったため一部が欠けているシリーズ物もあり、開高の人柄が感じられる。
公益財団法人開高健記念会が運営しており、茅ヶ崎には愛用品などを収蔵した「開高健記念館」がある。
開高健記念会事務長・森さんと理事・平松さんに、お薦めの開高作品を伺った。
森さんは、開高が食道がんで入院中に命懸けで書き上げた絶筆『珠玉』。書籍化されたのは、58歳でこの世を去った後だった。出版社勤務時代に「開高番」として闘病の苦しさを身近で見守り続けた森さんならではのチョイス。
平松さんは、毎日出版文化賞を受賞した『輝ける闇』。ベトナム戦地で見た夕日の赤さや銃口の焦げ付く匂いまでもが、目の前に迫るような筆致で描かれており「開高作品の醍醐味(だいごみ)を十分に味わえる」という。
小説・ルポ・対談集などほかにも評価の高い作品は多くあるが、どれから読もうか悩むのなら、まずは記念文庫を訪ねてみるのも一案だ。出迎えたスタッフが丁寧に解説してくれるだろう。
「開高健の世界」(公益財団法人開高健記念会)
『パニック・裸の王様』開高健(新潮社)
『ずばり東京』開高健(朝日新聞社)
『輝ける闇』開高健(新潮社)
『夏の闇』開高健(新潮社)
『オーパ!』開高健(集英社)
『珠玉』開高健(文藝春秋)
『白いページ』開高健(潮出版社)
『開高健の本棚』(河出書房新社)
『「面白半分」の作家たち ―70年代元祖サブカル雑誌の日々』佐藤嘉尚(集英社)