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井伏鱒二さん

広島から上京、荻窪に暮らした文壇の重鎮

井伏鱒二(いぶせ ますじ 本名 井伏満寿二 1898-1993)は、将棋と酒を愛した、阿佐ヶ谷文士たちのリーダー的存在である。
1898(明治31)年、広島県深安郡加茂村粟根(現福山市加茂町)にある旧家の次男として生まれた。5歳で父・郁太を亡くし、祖父にかわいがられて育つ。1917(大正6)年8月に上京、9月に早稲田大学予科1年に編入学した後、文学部仏文学科に進学したが、教授とのあつれきにより1922(大正11)年に退学してしまう。
編集者として出版社「聚芳閣」(しゅうほうかく)に2年ほど勤務し、以降は作家としての道を歩む。1938(昭和13)年、40歳のときに『ジョン万次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞。これを記念し、将棋仲間による「阿佐ヶ谷将棋会」が開催された。その後、『本日休診』その他で第1回読売文学賞、『漂民宇三郎』その他で日本芸術院賞を受賞し、1966(昭和41)年には文化勲章を受章した。同年、『黒い雨』により野間文芸賞受賞の際、旧友の河上徹太郎が「井伏文学は悲しみの文学です。山椒魚(さんしょううお)は悲しんだ。井伏はその処女作から悲しみの文学を書いたのです」と祝辞を述べている。
1990(平成2)年、東京都名誉都民となる。1993(平成5)年7月10日、95歳で逝去。

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すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の文士たち>杉並の文士たち(概要)

井伏鱒二の肖像。1975(昭和50)年、岡山県牛窓にて(写真提供:ふくやま文学館)

井伏鱒二の肖像。1975(昭和50)年、岡山県牛窓にて(写真提供:ふくやま文学館)

生家は1442(嘉吉2)年まで家系をさかのぼれる旧家(写真提供:ふくやま文学館)

生家は1442(嘉吉2)年まで家系をさかのぼれる旧家(写真提供:ふくやま文学館)

大学で親友と出会い、多くの同人雑誌に参加

福山中学校(現福山誠之館高等学校)在学中、大阪毎日新聞に「伊沢蘭軒」を連載していた森鷗外に、朽木三助の仮名で反駁(はんばく)文を送るといういたずらをしたが、相手が少年とは思わなかった鷗外は丁寧な返信をしている。
1917(大正6)年3月、中学校を卒業すると、画家を志し京都に写生旅行に出掛けた。20枚ほどの水彩画を描き、橋本関雪画伯に送って弟子入りを希望したが断られる。そこで、兄の友人の薦めで志望を文学に変え、早稲田大学予科の編入試験を受けた。
1919(大正8)年、文学部1年の夏、郷里で書いた習作を同級生の青木南八に送る。南八は井伏が書き散らした原稿を読んでは「いつか世に出る」と励ました。1923(大正12)年7月、同人雑誌「世紀」の創刊に参加し「幽閉」(『山椒魚』の原型)を発表。これは福山中学校の池に飼われていた山椒魚が主人公の寓話(ぐうわ)で、南八に送った習作のうちの一編である。後に冒頭の「山椒魚は悲しんだ」を残して全面的に改作され、井伏の初期の代表作となった。
「世紀」は関東大震災によって解散。井伏も一旦は帰郷したものの再び上京し、友人の紹介で作家の田中貢太郎を訪ねている。田中は高知出身の酒好きで、文学のみならず井伏の酒の師匠となる。その後、元「世紀」の仲間と「陣痛時代」を創刊。1930(昭和5)年には、小林秀雄、永井龍男、堀辰雄、河上徹太郎らがいた「作品」の同人になるなど、多くの同人雑誌に参加した。

『井伏鱒二文集 第1巻 思い出の人々』(筑摩書房)。坪田譲治、太宰治、上林暁らとの出会いが書かれている。装画「リンゴ」は井伏筆

『井伏鱒二文集 第1巻 思い出の人々』(筑摩書房)。坪田譲治、太宰治、上林暁らとの出会いが書かれている。装画「リンゴ」は井伏筆

阿佐ヶ谷文士たちとの交流

1927(昭和2)年9月、豊多摩郡井荻村字下井草(現杉並区清水)に家を建て、10月に田中の仲人で秋元節代と結婚する。以来、近隣の文化人(阿佐ヶ谷文士)らと親交を深めながら荻窪で執筆活動に励んだ。その様子は、1981(昭和56)年に「新潮」に連載した「豊多摩郡井荻村」(『荻窪風土記』として出版)に生き生きと描かれている。杉並区立郷土博物館には、『荻窪風土記』を創作するときに井伏が手書きした荻窪付近の商店の地図が残っており、学芸員は「しっかりと資料をまとめているところに井伏の人柄を感じる。『荻窪風土記』は昔の杉並を知ることができる貴重な作品」と話す。
『荻窪風土記』に「太宰治は大学に入りたてのころ私のところに手紙をよこし、返事をうっちゃって置くと二度目か三度目の手紙に、会ってくれなければ死んでやると言って来た」とある。1930(昭和5)年に初めて対面し、師弟関係になった太宰のことを、井伏は親身になって世話をした。太宰と大学同期の中村地平も、井伏の門下三羽烏(さんばがらす)といわれた一人で、将棋仲間でもあった。1938(昭和13)年に行われた「第2回阿佐ヶ谷将棋会」には18名が参加し、成績は1位安成二郎、5位井伏、11位中村、12位太宰だった。この集まりは「阿佐ヶ谷会」として戦後も続き、1948(昭和23)以降は、主に青柳瑞穂邸を会場に酒を楽しむ親睦会となった。
将棋好きだった井伏は、三好達治の詩集の行間に「亀井勝一郎宅を訪れて将棋6対2で勝つ」と結果を記している。1966(昭和41)年12月の「阿佐ヶ谷会」は、井伏の文化勲章受章の祝いと、亀井逝去の追悼のために行われた。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ>『荻窪風土記』
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の文士たち>太宰治さん

『荻窪風土記』創作メモの1枚。百貨店の包装紙を貼り合わせた紙の裏側に、11枚のメモと新聞記事が貼られている(出典:『杉並区立郷土博物館 研究紀要第27号』)

『荻窪風土記』創作メモの1枚。百貨店の包装紙を貼り合わせた紙の裏側に、11枚のメモと新聞記事が貼られている(出典:『杉並区立郷土博物館 研究紀要第27号』)

創作メモの翻刻(出典:『杉並区立郷土博物館 研究紀要第27号』)。『荻窪風土記』の「荻窪八丁通り」の章には、横光利一らの家の前を通った話が書かれている

創作メモの翻刻(出典:『杉並区立郷土博物館 研究紀要第27号』)。『荻窪風土記』の「荻窪八丁通り」の章には、横光利一らの家の前を通った話が書かれている

絵画をたしなみ、釣りや旅を楽しんだ晩年

井伏は将棋や酒のほか、絵画、釣りと多趣味で、著書にも知見が生かされている。
戦時中の1942(昭和17)年、陸軍徴用によりシンガポールで「昭南タイムズ」編集兼発行人として勤務するが、献納画を描くために来た藤田嗣治と出会い、デッサンする様子を興味深く眺めたという。60歳になってからは6年ほど天沼八幡通りにあった新本画塾に通い、日本橋で開催された展覧会に初めて描いた油絵を出品している。
この頃、甲州などでの釣りの旅を『釣師・釣場』に書いているが、井伏の釣りの師匠は随筆家・佐藤垢石であった。また、会員120名ほどの「荻つり会」に参加し、貸し切りバスで釣りの競技会に出掛けるなど、地元の釣り仲間とも親交を重ねた。
井伏は、太宰が「旅の名人」と称したほどの旅行好きでもあった。『井伏鱒二文集 第2巻 旅の出会い』の一編「晩春の旅」は、兵庫教育大学前田貞昭名誉教授によると「“文藝春秋創刊30年記念全國文藝講演會”に出席するための旅」だという。河上や三好らが飛行機で九州に向かう中、井伏だけが博多行きの急行列車に乗り、「作品」の同人だった牧野信一の遺品であるステッキを食堂車で紛失する話だ。70歳を過ぎてからも、「文藝春秋」編集長を務めた永井龍男らと日本各地を訪ねていた。

日本橋の画廊での展覧会に出品した絵(杉並区立郷土博物館所蔵)

日本橋の画廊での展覧会に出品した絵(杉並区立郷土博物館所蔵)

井伏が漢詩「勧酒」を和訳した後半部分の書(杉並区立郷土博物館所蔵)

井伏が漢詩「勧酒」を和訳した後半部分の書(杉並区立郷土博物館所蔵)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『井伏鱒二全集 第1巻 思い出の人々』井伏鱒二(筑摩書房)
    『夜ふけと梅の花・山椒魚』井伏鱒二(講談社)
    『釣人』井伏鱒二(新潮社)
    『釣師・釣場』井伏鱒二(講談社)
    『清水町先生』小沼丹(筑摩書房) 
    『新潮日本文学アルバム46 井伏鱒二』(新潮社)
    『井伏鱒二 日本の作家100人 人と文学』松本武夫(勉誠出版)
    『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』川島勝(文藝春秋)
    『鶏肋集・半生記』井伏鱒二(講談社)
    『厄除け詩集』井伏鱒二(筑摩書房)
    『井伏鱒二文集 第1巻 思い出の人々』井伏鱒二(筑摩書房)
    『井伏鱒二文集 第2巻 旅の出会い』井伏鱒二(筑摩書房)
    『杉並区立郷土博物館研究紀要 第27号』杉並区立郷土博物館
    『荻窪風土記』井伏鱒二(新潮社)
    『井伏鱒二 人と作品』松本武夫(清水書院)
    『井伏鱒二年譜考』松本武夫 (新典社)

  • 取材:杉野孝文
  • 撮影:NPO法人TFF
    写真提供:ふくやま文学館
  • 掲載日:2022年01月17日