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大一喜久屋商店

名無しでスタートした100年続く老舗

所狭しと並んだ文房具や事務用品の数々。しかしそれらは実に見やすく合理的に陳列され、客の手が伸びてくるのを今か今かと待っている。2024(令和6)年現在、杉並区の阿佐谷では唯一の文房具店となった大一喜久屋商店(だいいちきくやしょうてん)は、「ないものはない」くらいの品ぞろえと、店員の豊富な知識や親切な応対に定評のある町の文房具店だ。

古くから愛用されている伝票や文具もあれば、流行のキャラクター文具もそろっている

古くから愛用されている伝票や文具もあれば、流行のキャラクター文具もそろっている

大一喜久屋商店のあるJR中央線阿佐ケ谷駅北口のアーケード街は、カナモノワタナベ、マリヤ洋品店(昭和初期はマルヤ洋服店)、大黒寿司、とらや(とらや椿山の出店)と老舗が立ち並ぶ老舗ストリート。大一喜久屋商店も創業100年に及ぶ老舗だ。
経営者の関口秀男さん(以下、関口社長)は四代目だが、その創業は明治40年頃と二代目の祖父・六之助さんから聞き及んでいた。明治・大正の頃は屋号がなかったという。残念ながら店の創業期を記録した資料は焼失しているが、まだ田畑ばかりで民家の少ない村にぽつんと生活雑貨を扱う荒物屋として営業する様子が絵地図「明治・大正時代の学校附近」や古地図に残されている。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 産業・商業>老舗企業・老舗商店>カナモノワタナベ
すぎなみ学倶楽部 食>スイーツ>とらや椿山

「明治・大正時代の学校附近」(※1)。画面中央やや下部に「喜久屋」が描かれている

「明治・大正時代の学校附近」(※1)。画面中央やや下部に「喜久屋」が描かれている

屋号がなかったせいか「関口商店」という店名で記載されている(「大日本職業別明細図 昭和8年当時」に加筆)

屋号がなかったせいか「関口商店」という店名で記載されている(「大日本職業別明細図 昭和8年当時」に加筆)

積極的な営業と、しなやかな業態変更

1922(大正11)年の阿佐ケ谷駅開業を契機に周辺の田畑は宅地化され、翌年の関東大震災では被災者を含む多くの人が転入し村の活気は高まり、1924(大正13)年に杉並村は杉並町に移行した。同時に同業者も増えてくる。関口家の男衆は、現在の西東京市周辺まで足を伸ばし、卸売り先を開拓するなど積極的に販路拡大にいそしんだ。まだ自動車はなく自転車や大八車で御用聞きをしたり、品物を納めたりしていたという。

関口社長は、この頃の思い出話を祖父からよく聞いている。「昭和初期には、店では荒物だけでなく酒類も販売し、角打ちをやっていました。ですが、泥酔者の世話や掛け売りの集金も大変だったようで酒の扱いはやめたそうです。また、商店を営む経営者同士は阿佐ヶ谷囃子(あさがやばやし)に関わるなど町の顔役を担っていたそうで、祭りも現在でいうところのコミュニティの一つだったのかもしれないですね」
1939(昭和14)年に価格等統制令(※2)が発令され、公定価格の食品も扱うようになった。「これが計り売りなので、店内にはその後しばらく計量用のひも付きの徳利(とっくり)がたくさんあったのを記憶しています」

戦争で店を失うも文房具店として再出発

「戦争では、阿佐ケ谷駅そばにあったうちの店も建物疎開(※3)で店がなくなって、3年ほど休業したらしいんです。なんとか貯蓄で食いつないで、苦しい時期だったでしょうね。そして1948(昭和23)年ごろ、前の店から西へ20mほど移動した現在の場所で店を再開したのです」。今度は日本専売公社の公定価格品の販売をしながら、現在の文房具店として地固めをしていく。
1951(昭和26)年に「同族会社の第二次納税義務」などの税制・組織運営に影響する法令等が立法化され、とうとう名無しの商店は法人化し店名を決めることとなった。店の近くに住んでいた大学教授が「喜久屋」という店名を提案してくれたが、既に荻窪の文具店が「喜久屋文具店」と登録していたため、思案を重ね店名に「大一」と加えた。二代目の名前の「六」と三代目の紘一の「一」で「六一」となるところだが、「これでは質屋になってしまうので(※4)、六を大にして大一喜久屋商店」と落ち着いた。

大一喜久屋商店を含む店が取り壊され、このエリアが後の中杉通りとなる(出典:阿佐谷パールセンター ホームページ)

大一喜久屋商店を含む店が取り壊され、このエリアが後の中杉通りとなる(出典:阿佐谷パールセンター ホームページ)

阿佐谷でただ1軒の文房具店

関口家は元々高円寺にルーツを持つが、戦後まもなく生まれた関口社長は根っからの阿佐谷っ子だ。杉並区立杉森中学校に通っていた時代は、バレーボール部で汗をかいた帰りにうさぎや(2024年閉店)のおしるこやとらやの甘味を堪能したのも懐かしい思い出だ。
大学卒業後どこに就職することもなく、ごく自然に家業を手伝い、昭和50年ごろに父・紘一さんの後を継いで代表取締役に就任した。店の仕事、地元企業への納品のほか、組合の役員をしていた時期もあり、多忙な毎日を送っている。「私が杉並区の文具組合(全文連杉並支部)の会計を担当していた頃は、阿佐谷には11軒の文房具店があったんですよ。南にも北にも数軒ずつね。どうして長年やってこられたのか、そうだなあ…」と、しばし沈黙の後「好きだから、ただそれだけだね」

代表取締役・関口秀男さん

代表取締役・関口秀男さん

杉並区統計書「商業」書籍・文房具小売業による、店舗数の推移(参考:『杉並区統計書』)

杉並区統計書「商業」書籍・文房具小売業による、店舗数の推移(参考:『杉並区統計書』)

人として接客したい

「うちは学校のそばにあるけれど、事務用品も多い。お客さんの要望を聞いているうちに、どんどん品物が増えていっちゃってね。でも私は文具のことは詳しくないんだよ。そういうのは店のみんながやってくれる。見本市にも出かけて新商品の品定めもしてくれる」
親類にあたる店員の伊藤さんは、「親子四代で来店いただくお客さまもいらっしゃいます。品ぞろえは年齢層や、季節感に配慮しています。一筆箋一つとっても秋には紅葉柄を用意し、冬にはまた違う絵柄を用意します。買わなくてよいものはそう伝えますし、まず人としてお客さまに接しているんです」。他の店員からも「お客さんとのコミュニケーションが仕入れの参考になることがあり、通ってくれるお客さんに感謝しています」という声が聞かれた。

見つけることのできない商品は店員に尋ねると、あっという間に探してくれる

見つけることのできない商品は店員に尋ねると、あっという間に探してくれる

「作戦継続中」「人は宝」

関口社長は店内を見回し「まだね、うちは作戦継続中なの。ほら商品が見やすくなるよう、什器(じゅうき)やディスプレイを工夫してね、店のみんなが細やかな努力をしてくれているの。以前は比較的年配の方が店に入ってくれていたけど、今は張り紙を見た文房具が好きな若い人も働いてくれている。本当に幸せ。人は宝だね」
業態を変えながらも100年続く老舗には、特にヒーローもヒロインもいなかった。大一喜久屋商店は、ごく普通に町の人が町の人に対してすべきことをする、温かな空間だった。量販店や通信販売では感じることのない日本のホスピタリティを身近に、そして深く実感したい外国人観光客にもお勧めしたい店だ。

量販店や他の文房具店では見かける機会のほぼない希少な商品も置いている

量販店や他の文房具店では見かける機会のほぼない希少な商品も置いている

※1 「明治・大正時代の学校附近」:1975(昭和50)年に杉並区立杉並第一小学校の100周年を記念し、当時校長だった竜野宗男さんが描いた絵図。明治・大正当時はまだ屋号のなかった店が喜久屋と記されていることから口伝を参考にして描いたと推測される

※2 価格等統制令:第二次世界大戦の勃発による海外物価上昇の波及を阻止するため、1939(昭和14)年10月18日に公布された勅令。国家が公定価格を定め、値上げを禁じた

※3 建物疎開:空襲などによる延焼を防ぐため、あらかじめ建物を解体すること

※4 「一」と「六」との和の「七」が同音の「質」に通じるところから、質屋のことを指す

DATA

  • 住所:杉並区阿佐谷北2-14-10
  • 電話:03-3338-0457
  • 営業時間:10:00-21:30
  • 休業:日曜・祝日
  • 出典・参考文献:

    国税庁 ホームページ https://www.nta.go.jp/

  • 取材:高円寺かよ子
  • 撮影:高円寺かよ子
    取材日:2024年10月25日
  • 掲載日:2024年12月23日