荻窪にある石臼挽き(びき)手打ちそば店の本むら庵は、1924(大正13)年創業の老舗だ。2024(令和6)年に創業100周年を迎えた。4代目当主の小張勝彦(こばり かつひこ)さんに、その100年の歴史について話を伺った。
小張家は元々武士であったが、江戸時代からは代々農家を営んでいた。1923(大正12)年に起きた関東大震災後、杉並には都心部から多くの被災者が移り住み、貸家を営むようになった専業農家も多くなった。急な人口増加で飲食店の需要も高まり、初代当主となった小張清右衛門さんは、そば屋を始めることを決意。知り合いのそば屋から営業について教わって本むら庵を開業した。「その頃、店の辺りは旧上荻窪村本村(現上荻2丁目)と呼ばれていて、それが店名の由来です。周りには多くの店舗があり商店会を作っていました」と勝彦さんは語る。
創業当時は、新しく移り住んできた住民に出前を中心とした営業を行っていた。政府・軍部の関係者の別宅や本宅が増えるにつれ、そば屋に求める役割が、単なる食事の場から食べながら歓談する場に変化してきた。そこで、3代目当主の小張信男さんは、出前中心の営業から客に来てもらえる店にしたいと考え、1971(昭和46)年に店を改装して、それまでの機械打ちから石臼挽きの手打ちそば店に転向した。
原料には、北関東産(特に茨城県や栃木県北部産)の玄そばを用いた。そば粉は自家製粉とすべく試行錯誤して、そばの実を割り抜き(※1)して石臼で挽くというやり方に到達。石臼にもこだわり抜き、たくさんの試作品を作った。その一部は、今も花鉢台として荻窪本店の中庭に置かれ、店内の客席から見ることができる。
少しずつ客も増えてきた頃、そば打ちの実演で信男さんがテレビに出演。それをきっかけに店が評判を呼び、テレビ・雑誌などで紹介されるようになった。1978(昭和53)年に六本木支店を開店、さらに1991(平成3)年、信男さんの長男・小張幸一さんがニューヨークにHonmura Anをオープンし、日本のそばを待ち望んでいたニューヨーカーに石臼挽きによる自家製粉手打ちそばを提供した。
しかしその後、2001(平成13)年9月11日に起きた米同時多発テロを受け、日本のそば職人へのビザが下りず、2007(平成19)年に撤退。六本木支店も2022(令和4)年に閉店し、2024(令和6)年現在は荻窪本店のみで営業している。
現在は、北海道産の玄そばも使用しており、玄そばは18度に保たれた低温のコンテナ倉庫に100袋分を常備保管している。そのため、国内のそばの流通量が減る夏場でも、国内産そばを提供することが可能だ。
石臼は知り合いの墓石屋に特注する。目立て(※2)は自ら行い、さまざまな工夫を重ねて自家製粉を行っている。
また、荻窪本店の庭には、お稲荷様が祭られた現明稲荷神社(げんみょういなりじんじゃ)がある。石を担いだ僧侶がこの地で行き倒れになった際、その石をこの地に置かせてほしいと頼まれて祭ったのがいわれだという。2月14日がその僧侶の命日であるため、独自の「例大祭」とし、例年初午(はつうま)の日と共に荻窪八幡神社にご祈祷(きとう)をお願いしている。
従業員数は30名。若いそば職人志望者は、そばの石臼挽きから手打ち、つゆの作り方など、一通りの技術を身に付ける。のれん分けは行っていない。
手打ちそば以外には、1~2カ月替えで一品料理を提供している。客に飽きさせず足を運んでもらう店づくりの一環である。店名とともに掲げられている「御免蕎麦司」(※3)という言葉には、「常にひたむきに努力をし、お客様に満足のいく料理を提供したい」という思いが込められている。勝彦さんは、「これからも石臼挽き手打そばと一品料理に磨きをかけてゆきたい」と語った。
※1 割り抜き:玄そばを割って殻を取り除く方法
※2 挽き臼の目が減って鈍くなったのを鋭くすること
※3 「御免蕎麦司」:謙遜と戒めを込めつつ、そばをつかさどる職として最上位の言葉を意味する
『杉並風土記上巻』森泰樹(杉並郷土史会)
「本むら庵の百年」(本むら庵ホームページ) https://honmura-an.co.jp/about/history/