紅葉の名所として知られる大田黒公園は、音楽評論家・大田黒元雄 (おおたぐろ もとお 1893-1979)の屋敷跡をその遺言に従って杉並区が公園として整備したものである。大田黒は大正時代より、まだ日本人になじみのなかった西洋の音楽を一般の人々に紹介する著書を次々と発表し、日本における音楽評論の草分けといわれる。
音楽の仕事にとどまらず、写真家、エッセイスト、人気ラジオ番組のレギュラー出演者と、さまざまな顔を持つ大田黒の足跡を追ってみよう。
大田黒は、著名な実業家である父・重五郎と母・らくの一人息子として東京に生まれた。重五郎は、いわゆる没落士族の出ながら、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、三井物産に入社、芝浦製作所(現東芝)を業界トップ企業に育成し、日本の水力発電の先駆者として九州水力電気(現九州電力)をはじめ各地で水力電気会社を立ち上げた。自らの力で功成り名を遂げた重五郎は、大らかな人柄であった。一人息子について「心中微塵も心配をしたことのない」「幼い時から一度だって頭なんか叩かないで済んできた」(『思ひ出を語る』)という重五郎の回想からは、元雄が、経済的な豊かさはもちろんのこと、親の愛と信頼の下でのびのびと育ったことがうかがえる。
西洋音楽は、明治政府の欧化政策・富国強兵政策と連動して日本国内に入ってきた。大田黒が神奈川県立第二中学校(現小田原高等学校)を卒業した1910(明治43)年当時、一般の人が西洋音楽を耳にする機会は乏しかった。
そんな中、大田黒は、オーストラリア帰りのピアノの上手な少女と知り合う。彼女の演奏が「私の耳を教育してくれ」、また1911(明治44)年に彼女が出演した華族会館での音楽奨励会に出かけ「”高尚な”演奏会をこの晩に初めて知った」と回想している(『気楽な散歩』)。
西洋音楽に憧れを抱いた少年は、東京音楽学校(※1)の教師からピアノを学び、アメリカに行く知人に頼んでレコードを手に入れた。しかし、触れることができる楽曲の範囲は限られ、未知の音楽に対する大田黒の憧れと好奇心が募っていった。
1913(大正2)年2月、19歳の大田黒は、ロンドンの地を初めて訪れた。経済学を学ぶためロンドン大学に留学したのだが、本場で「音楽らしい音楽というものを…始めて教えられ」(『華やかなる回想』)、その美しさ、華麗さ、迫力に魅了される。現地の書籍から音楽の知識を貪欲に吸収するとともに、オーケストラ、オペラ、バレエの舞台に通い詰めた。
1914(大正3)年1月から6月までの音楽日記には、ロイヤルアルバートホール、クイーンズホール、エオリアンホールなど計68回に及ぶ演奏会の細かな内容や率直な感想が書かれている。日本で耳にできない高レベルの生演奏。とりわけドビュッシー、ストラヴィンスキー、ラフマニノフらその時代を生きる作曲家、すなわち当時の現代音楽が大田黒を興奮させる。時には作曲家自身による演奏も聴いた。日記からは「新しい音楽」に胸を躍らせる様子が伝わってくる。
1914(大正3)年7月、夏休み帰省中に第一次世界大戦が勃発して英国に戻れず、大田黒は暇を持て余す。そのとき勧められて書いたのが『バッハよりシェーンベルヒ』。この著書で、まだ日本ではあまり知られていなかったドビュッシーらを紹介し、新知識をもたらす音楽文筆家として楽壇や音楽愛好家に知られる存在となった。
執筆活動を始めた大森山王の自宅には音楽好きの若者が集い、大田黒の「新しい音楽」への熱が彼らに伝染する。1916(大正5)年、弱冠24歳で、仲間を率いて日本で最初の音楽評論雑誌ともいわれる「音楽と文学」を創刊し、西洋の同時代の音楽を紹介した。英国で演奏会に独り通う道すがら「音楽を知って居るまた話の合った友達と行ったらどんなにい々だろう」(『洋楽夜話』)と思っていた大田黒にとって、楽しい活動であったろう。
「音楽と文学」は3年半で廃刊となるが、大田黒はその後も意欲的に執筆活動を続けていく。
銀座・資生堂パーラーの常連だった大田黒は、資生堂の経営者・福原信三(※2)に誘われ、1921(大正10)年6月、寫眞(しゃしん)藝術社の立ち上げに関わる。
当時のアマチュア写真が「絵画の模倣」とやゆされる中、寫眞藝術社は「カメラならではの表現」を目指した。この時期、大田黒は写真に熱中し、先進的な意見を雑誌「寫眞藝術」で発表した。いわく「写真とは光と影の芸術」として濃淡を含む光と影に注意を払うよう勧め、望遠レンズの効用を述べ、ありふれた日常を切り取って芸術を作り出すことに写真の面白さがあるとした。自身でも、軒先に干した大根など、近代化していく東京に残る江戸の面影をソフトフォーカスで写し、モダンかつノスタルジックな情緒を醸す作品を残した。
雑誌は模倣者が続出するほどの反響を呼ぶが、関東大震災の影響で寫眞藝術社は3年弱の活動を終える。その頃には大田黒の写真熱は冷め、以後は写真から離れている。
昭和初期まで政治家や貴族の別荘が多くあった杉並区。1933(昭和8)年、家族と共に荻窪の地に転居した大田黒は、当時執筆中の本の序文で「朝夕の微風が近くの畑から肥料の匂ひを運んでくるこの土地は大森に比して遙かに野趣に豊か」(『奇妙な存在』)と述べている。以後、この地に建つこぢんまりとした洋館が仕事場となった。
敷地の門から玄関へと続く小道の両脇には現在の大田黒公園と同じく木立が並び、「夏になると、セミを捕るために近所の子供たちが忍び込んできて仕方がない」が「あまり玄関の近くまで来てはいけないよ、とだけいって、頭から追い払わないように」していた(『はいから紳士譚』)というエッセイもある。
大森時代の日課は銀ブラ。荻窪に転居後は、午前中に執筆活動を済ませ「午後からは省線(※3)あるひはバスで荻窪から有楽町まで遊びに行く」(『文芸公論1(4)』)というのが習慣となった。
野球や探偵小説など多趣味で知られたが、雑誌の企画で趣味を問われた際には「服装」と答えている。自他ともに認める「倫敦風のダンディー」で、おしゃれに関するエッセイも多数執筆した。作家・大佛次郎は、大田黒の著書の序文で「本屋で偶然会った大田黒にレインコートはどこで買うのが良いか尋ねたところ、即座にバーバリーの店舗へ連れて行かれた」というエピソードを披露している。
また、日本初のクイズ番組であるNHKのラジオ「話の泉」では、放送開始翌年の1947(昭和22)年からレギュラー解答者として出演し、上品かつスマートな語り口でお茶の間の人気を博した。「話の泉」は約20年間続いた長寿番組で、スタジオ録音のほか全国各地での公開録音もたびたび行われ、大田黒は収録で行った先々の温泉について楽しげなエッセイを書いている。
大田黒は、著作・翻訳を合わせ生涯で100冊を超える著書を世に出し、ときには少年雑誌・少女雑誌にも執筆して西洋音楽の楽しみを人々に伝え続けた。長年にわたる日本音楽界への貢献が評価され、1964(昭和39)年に紫綬褒章を受章、1967(昭和42)年に勲三等端宝章を受勲、1977(昭和52)年に文化功労者に選ばれた。「日本における洋楽の導入・定着に決定的な影響を与えた」(『読売新聞1979(昭和54)年2月7日』)功績は偉大というほかない。
しかし、本人の口癖は「僕の音楽評論なんて偶然から生まれた全くの道楽仕事さ」(『朝日新聞1979(昭和54)年1月23日』)だった。生家の豊かな財力を背景に、生涯、職業としてではなく自分自身のために音楽を楽しみ、自分の感じるままを率直に書いた。「一生遊んできたよ」(『朝日新聞1957(昭和32)年4月24日』)と語った、そのとおりであろう。
86歳で亡くなる1979(昭和54)年まで暮らした屋敷の跡地は、公園にしてほしいという大田黒の遺志に従い杉並区によって整備され、1981(昭和56)年に日本庭園が美しい「杉並区立大田黒公園」が開園した。
仕事部屋があった洋館は、記念館として保存され、愛用のピアノ、蓄音機のほか、大田黒の写真作品や自宅で催していた演奏会のプログラムなど、生前の様子をしのばせる品々が展示されている。
記念館は見学可能なので、大田黒公園を散策される折に立ち寄ってみてはいかがだろうか。
※1 東京音楽学校:1887年に設立された官立かつ当時唯一の音楽専門学校。東京藝術大学音楽学部の前身
※2 福原信三(ふくはら しんぞう):熱心なアマチュア写真家で、日本近代写真黎明期のパイオニア的存在だった。生前に7冊の写真集を発表。1883-1948
※3 省線:現在のJR中央線
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>大田黒公園記念館(旧大田黒元雄邸)
すぎなみ学倶楽部 歴史>100年の音色を刻むー大田黒公園ピアノ物語
『大田黒元雄の足跡-西洋音楽への水先案内人-』展示図録(杉並区郷土博物館)
『音楽そのほか』大田黒元雄(第一書房)国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1266092
『思ひ出を語る』大田黒重五郎(口述)ほか(大田黒重五郎翁逸話刊行会)国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1230346
『気楽な散歩:随筆集』大田黒元雄(第一書房)国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1209530
『華やかなる回想』大田黒元雄(第一書房)国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1017556
『100年前のロンドン』マール社編集部編(マール社)
『洋楽夜話』大田黒元雄(岩波書店)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955896
『洋楽夜話 続』大田黒元雄(音楽と文学社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955895
『バッハよりシェーンベルヒ』大田黒元雄(山野楽器店)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/954855
『音楽日記抄』大田黒元雄(音楽と文学社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/961538
『第二音楽日記抄』大田黒元雄(音楽と文学社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/961540
『大田黒元雄とその仲間たち : 雑誌『音楽と文学』(1916~1919) : 回想・プロフィール・記事一覧』 日本近代音楽館 編(日本近代音楽館)
『音楽青春物語』野村光一(音楽之友社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2466316
「音樂と文學の仲間(自傳七) 」野村光一『音樂公論』2(8)(音楽評論社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1500013
『ヂンタ以来』堀内敬三(アオイ書房)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212597
『 寫眞芸術の時代 : 大正期の都市散策者たち : 特別展 : the 5 Flaneuse in Tokyo 1921-24』 渋谷区立松濤美術館編(渋谷区立松濤美術館)
日本写真会 公式ホームページ https://www.jp-photo.gr.jp/founder/
『奇妙な存在』大田黒元雄(第一書房)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209296
『はいから紳士譚』大田黒元雄(朝日新聞社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12408687
『文芸公論』1(4)(丹頂書房)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1724219
『少年クラブ』35(6)(講談社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1798662
『それいゆ』(23)(ひまわり社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2264093
『雲雀笛』(23)(新風社)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1849687
『温泉』27(11) 日本温泉協会編(日本温泉協会)国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4412328
『東京新聞』1960(昭和35)年1月1日
『読売新聞』1979(昭和54)年2月7日夕刊
『朝日新聞』1979(昭和54)年1月23日夕刊
『朝日新聞』1957(昭和32)年4月24日朝刊