髙橋初男さんは1926(大正15)年(※1)3月、東京府豊多摩郡杉並町字成宗(現杉並区成田西)生まれ。1947(昭和22)年から東京都職員として教育庁に勤務し、戦災校舎の復旧から高校進学希望者が全員入学するための高校増設まで、主に教育行政畑を歩いた。東京都立中央図書館次長(理事)を最後に、56歳で勇退。退職後は、東京の縄文遺跡などの調査・研究・収蔵を行う財団法人東京都埋蔵文化財センターの常任理事を務めた。また、杉並区立郷土博物館の運営協議会委員、「すぎなみ学倶楽部」の運営委員として活躍するなど、杉並との関係も深い。
78歳からブログをはじめ、90歳を超えた今もブログ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどのSNSを駆使して、歴史、自然、文化などを中心に杉並の魅力を発信している。縄文遺跡に魅せられたことから、ペンネームは「縄文人」。自身のブログ(※2)で「古い縄文人ですが、気分はいつも平成人」と自己紹介し、生涯現役を目指している髙橋さんに、郷土杉並での活動などについて語っていただいた。
※1 1926年は1月1日から12月25日までが大正15年、12月25日から12月31日までの7日間が昭和元年
※2「デジカメブログ 日々の記録」(旧タイトル「縄文日記」)
http://blog.livedoor.jp/ht15325/
「杉並第二尋常小学校(現区立杉並第二小学校)に入学した昭和の初めは、家の周りは畑や田んぼで、フナやタナゴのいる小川が流れ、夏には蛍が飛んでいました。屋敷林に囲まれた農家が点在する、江戸時代からの典型的な近郊農村地帯でした」と話す髙橋さん。しかし、その頃の日本は、昭和の激動期に向かっており、幼心にも何かしら世の中が大きく動いていくように感じていたという。1931(昭和6)年には満州事変が勃発、1936(昭和11)年には二・二六事件が起きた。「5年生の時でしたが、二・二六事件ははっきりと記憶に残っています。前夜が大雪だったので、朝、校庭で雪合戦をやっていたら、急に集合させられました。何か大きな事件があったので、休学するから早く家に帰るように言われました。荻窪の近くに住んでいた友達は、“今朝、機関銃の音がダ・ダ・ダ・ダ・ダとしていたよ”と話していました。後になって青年将校によって荻窪の陸軍教育総監の渡邉錠太郎さん(※3)が襲撃されたと知りました」
京王井の頭線の開通の日に友達5、6人と連れ立って浜田山駅まで歩いて見に行ったこと、雪が降った日に学校の脇にある三年坂(※4)で手作りの竹スキーで友達と滑って遊んだこと、大雨で善福寺川が氾濫し、田んぼや善福寺川緑地が一面湖のようになったことなど、子供の頃の思い出は今も色あせていない。
終戦の日の記憶―文書焼却の煙
髙橋さんは兵役の経験がある。「戦争末期の1945(昭和20)年7月、徴兵年齢が1年繰り下がったため、19歳で神奈川県相模原の電信第一聯隊(れんたい)に入隊しました」。厳しい訓練が続くなか、1カ月半後の8月15日に終戦を迎えた。「当日は、正午に兵営本部の庭に全員集合し、昭和天皇のラジオ放送を聞きました。敗戦になって悔しいというより、つらい訓練が終わってほっとしました。それからの数日間は、兵営本部から文書焼却の煙が終日絶えなかったことが強く印象に残っています」
※3 渡邉錠太郎:陸軍大将。軍事参議官、教育総監などを歴任。二・二六事件で青年将校により殺害された
※4 三年坂:成田西三丁目にある坂
http://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/hyouji/1007975.html
「社会人になってからは、40年近く勤務先との往復で、地域との関わりはほとんどなく、杉並に住んでいるだけの生活でした」。退職後、奥様が民生委員や町会役員をやっていた関係から、自身も町会(成二町会)、尾﨑熊野神社の会(尾﨑熊野会)などの役員となり、地域活動を始めた。今も夫婦で2つの会の役員を引き受けている。
1989(平成元)年、杉並区立郷土博物館のオープンにあたり、館長の諮問機関として運営協議会が設けられた。髙橋さんは63歳の時に初代の委員を委嘱され、会長職を経て2008(平成20)年82歳で退任するまで、郷土博物館の運営に尽力した。なかでも、開館10周年に際して提言した「生涯学習社会に対応する郷土博物館の充実について」が心に残っているという。これは常設展示室の改新などについての提言で、2015(平成27)年に柔軟な展示ができるようにリニューアルされたそうだ。
また、「すぎなみ学倶楽部」には、2006(平成18)年のサイト開設時に運営委員として関わった。「毎回の委員会では、いろんな職業の方々などとの自由な論議がとても新鮮でした」。髙橋さんは、歴史コーナーのライターも担当し、「善福寺川流域の今と昔」「尾崎の七曲り」「天保の新堀用水」の記事を執筆した。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並の変遷>善福寺川流域の今と昔
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並の変遷>旧五日市街道の難所「尾崎の七曲り」
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並の変遷>智慧と技術の結集!天保の水普請 新堀用水
髙橋さんは現在、ブログ、フェイスブック、ツイッターなどを利用して幅広い人々と交流している。だが、在職中ITに関しては都立中央図書館や東京都埋蔵文化財センターの電算化計画に関わったくらいで、パソコンに触れたこともなかったそうだ。
退職後、中古のパソコンを購入し、大学の市民講座やIT講習会を受講してインターネットやEメールなどの活用法を学んだ。ブログを始めたのは2004(平成16)年、78歳になってからで、以来14年間更新し続けている。「ブログやフェイスブックは、幅広い人たちと交流できるのが魅力です。時間に余裕のできたシニア世代には、自分で記事を書き、写真を載せて発信するブログやフェイスブックを始めることをお勧めしています」
2014(平成16)年、髙橋さんは、JMOOC(※5)のオンライン講座を受講した。以前から関心のあった「日本のインターネットの父」と言われる慶應義塾大学の村井純教授の「インターネット」に関する講座だ。「日常使っているインターネットやメールが、世界中でなぜ簡単につながるのか、またインターネットの考え方や哲学などについても学びたかった」と髙橋さん。朝から夕方まで食事も忘れて勉強に没頭し、家族が心配することもあったという。88歳のシニアが、難しい修了要件を大きく上回る高得点で修了証を獲得したというニュースは、当時ネットでも取り上げられた。
※5 Japan Massive Open Online Courses Promotion Council:一般社団法人日本オープンオンライン教育推進協議会
何事にも熱心に取り組んでいる髙橋さんに、その意欲の原点を伺った。「年齢を重ねても、いつも新しい知識を学びたい、新しい体験をしたい、という気持ちが強い。そして、新しく知識を得たり体験をしたりすると、さわやかな喜びを感じることができる、それが楽しいのです。一日一日が生涯の中の一日だと思っています。苦労や悩みは、明日に持ち越さない、その日のうちに解決する。でも、もしその日に解決できなければ明日やればいい、こんな風に私は考えています」
読書も好きだという髙橋さん、「最近読んだ作品は、『あの家に暮らす四人の女』『雪の階(きざはし) 』『信長の原理』です。いずれも面白く、一気に読み通しました」と話す。三浦しをんの『あの家に暮らす四人の女』は、友人のフェイスブックで知ったとのこと。小説の舞台となっている善福寺川近くの広い洋館のモデルがどこにあるのか、いま探しているところだそうだ。SNSを通じて、大正生まれの平成の現役現代人の髙橋さんの好奇心に、またスイッチが入ったようだ。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ>『あの家に暮らす四人の女』
取材を終えて
インタビューの最後に、これからやってみたいことを伺うと、「2020年の東京オリンピック・パラリンピックをこの目で見たい」と即答。1949(昭和24)年に第4回国民体育大会が東京で開催されたとき、事務局を担当して平和を実感したそうだ。「2020年はとても楽しみにしている。ぜひとも成功してもらいたい」と話す髙橋さんの襟元には「TOKYO 2020」のバッジが輝いていた。
髙橋初男 プロフィール
1926(大正15)年生まれ。元東京都職員。退職後、財団法人東京都埋蔵文化財センター常任理事。杉並区立郷土博物館運営協議会委員(のち会長)、「すぎなみ学倶楽部」運営委員兼区民ライターとして活躍。現在は、地元の成二町会、尾﨑熊野会などの地域活動にも参加している。
1996(平成8)年、地方自治功労により勲四等瑞宝章を受ける。2009(平成21)年、杉並区功労表彰を受ける。