その流れの中で、井荻の優位性を獲得するためには、区画整理だけではなく、電気・上水道・鉄道の駅などの関連整備が必要であると内田は考え、積極的にそれらの整備を行った。また、中島飛行機東京工場の進出に対して、土地の活用、雇用の創出、併せて公害の防止という観点から対応し、それらの判断は適切であった。
そして、この大規模な事業を比較的早期に完了できた最大の要因は、内田が発揮したリーダーシップ、特に、内田の情熱と実行力、人々の信頼を得た人柄に尽きると思います。
この井荻町土地区画整理事業を総合的に考察すると、まさに、内田なくして井荻の区画整理事業はなかった、あるいは少なくともこれほどの成果に結びつく事業にはならなかったと言えるのでないかと考えます。
時折、「内田秀五郎は、なぜあんなに頑張れたのか」と聞かれることがありますが、私は「地元愛に生涯を捧げた」ということではないかと考えます。政党政治家や中央経済人とも付き合いがあったようですが、それに深入りせず、あくまで東京府・市、杉並・井荻の人に徹したことでしょう。
現代の市長さん・区長さんなどにもぜひそうあってほしいのですが、意欲はあってもなかなかそうは政治を行えない時勢なのかもしれません。
髙見澤邦郎 プロフィール
東京都立大学名誉教授 工学博士。専門は都市計画学。
1942年に荻窪(旧東荻町)で生まれ、幼少期から高校までを過ごす。父は『のらくろ』の作者で漫画家の田河水泡。旧井荻町の土地区画整理事業を始め、さまざまな地域の市街地整備の歴史に詳しい。元杉並区まちづくり景観審議会会長。
井荻町土地区画整理が成功した要因の一つは、地縁・血縁を活用した組織運営にあると考えます。井荻の土地区画整理組合は、土地持ちの自作農の人たちで構成されていましたが、地区ごとに、江戸時代からまだ続いていた地縁(名主、講元※1、水路管理者など)や血縁(本家と分家)を使って地権者(土地所有者など)との交渉役や工事管理役を担わせました。特に、対応が難しい換地については、地権者に対して大きな影響力を持っているこうした地域の顔役たちを活用したことから、区画整理は比較的迅速にうまく進んだといわれています。
さらに挙げるなら、将来の姿を描くことができる内田秀五郎の「先見性」「見識の高さ」だと考えます。モータリゼーションの到来を予見したかのごとき区画整理における「道路の隅切り」や、中島飛行機の誘致にあたっての四つの条件提示は、まさにその典型だと思います。
まち歩きで「道路が旧町境や区境を越えた途端に狭くなる理由」や「なぜここに公園があるのか」など、普段あまり気にしていない風景が実は区画整理などによってつくられたことを説明しています。そしてその地域に長期にわたって影響を与えていることも。また、善福寺公園は建設当初「遊歩道や池を造成してボートを浮かべ武蔵野の風景を台無しにした」とか「下池造成は自然破壊だ」などと批判も出たりしたけれど、現在では「武蔵野の風景が残る自然豊かな公園」と時間軸によって評価がガラリと変わるものがあることなどを伝えています。
野田栄一 プロフィール
郷土史家。杉並区文化財保護ボランティア(※2)。
1961年杉並区生まれ。2006年頃より郷土史家として西荻窪を中心に活動を開始。国際野外アート展「トロールの森」実行委員会事務局代表(2012~2019年)。区民センター協議会主催のまち歩きウオーキングなどの講師としても活躍中。
※記事内、故人は敬称略
※1 講元:神仏へ詣でる講中の主催者・世話人のこと
※2 杉並区文化財保護ボランティア:区の文化財標柱・案内板の現状確認調査や郷土博物館所蔵資料の整理作業などを行うボランティア
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>地域をつなぐ>野田栄一さん
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並まち歩き>内田秀五郎の思いを知る、初秋のまち歩き
『井荻町土地区画整理の研究-戦前期東京郊外の形成事例として-』高見澤邦郎(南風舎)
『評伝 内田秀五郎』寺下浩二(はこだて町並み資料館)
『遅野井善福寺風致協会の足跡』(善福寺風致協会)
『事業誌』(井荻町土地区画整理組合)
杉並区>内田秀五郎のしごと
https://www.city.suginami.tokyo.jp/suginamishoukai/90th/5storys/1073409.html