内田秀五郎さん【後編】

現在の淀橋(よどばし)市場全景 (写真提供:東京都中央卸売市場淀橋市場)

現在の淀橋(よどばし)市場全景 (写真提供:東京都中央卸売市場淀橋市場)

風致地区にかけた内田秀五郎の情熱

内田秀五郎は、土地区画整理事業で大規模な宅地造成を実施する一方、自然保護のため風致地区(※1)の保全に全力を尽くした。秀五郎にとって、この二つの事業は矛盾するものではなく、いずれも郷土の発展のためのまちづくりの施策であった。

「善福寺風致協会」の設立
1930(昭和5)年10月、善福寺池を中心とした60.4haが風致地区に指定された(※2)。この保護推進のため、府会議員だった秀五郎は風致協会の設立を呼びかけ、1934(昭和9)年10月、「社団法人善福寺風致協会」が設立されると会長に就任。私財を投じ、約1万坪の土地を確保して、東京府に寄付した。
また、東京各所の風致地区の保全にも努め、1935(昭和10)年に「東京都風致地区連合会」が設立されると副会長に就任し、1943(昭和18)年には会長になった。

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社団法人善福寺風致協会役員。前列右から2人目が内田秀五郎(出典:『善福寺池五十年の歩み』)

社団法人善福寺風致協会役員。前列右から2人目が内田秀五郎(出典:『善福寺池五十年の歩み』)

善福寺風致地区区域図(出典:『善福寺池五十年の歩み』)

善福寺風致地区区域図(出典:『善福寺池五十年の歩み』)

「善福寺風致協会」とその活動

協会がまず取り組んだのは風致地区中枢部の保全であった。東京府と共同で善福寺池の拡張工事を行い、土砂が堆積していた池を復旧。また、遊歩道の建設や、植樹、稚魚の放養のほか、活動の財源として、東京府から水面の使用許可を得てボート事業にも力を注いだ。
次いで協会は新たな風致の創造に乗り出す。善福寺川沿いの荒れた田んぼを開削し、1943(昭和18)年春には新池(下池)を作り上げた。しかし、戦局の悪化に伴い、同年12月には都市計画戦時特例が発布され、風致地区取締規定が停止。樹木の伐採などにより、風致地区は荒廃した。   
協会の通常の事業が再開されるのは1951(昭和26)年からである。1953(昭和28)年、善福寺風致地区内に秀五郎の喜寿を記念して銅像が建立された。1956(昭和31)年には建設省告示による都市計画善福寺緑地の計画決定により公園化が進められ、1961(昭和36)年6月に「都立善福寺公園」が開園した。
その後、協会は都による公園の充実化に協力し、植樹、「風致の森」の造成、夏季納涼大会、ボート事業などを行ったが、1975(昭和50)年代以降になるとレジャーの多様化などによりボート事業は低迷したために使用権を都に返還した。その他の事業は継続に努力したが、2010(平成22)年、協会の社会的役割が終わったと判断し解散を決した。
協会発行の最後の記念誌『遅野井 善福寺風致協会の足跡』は、「初代内田秀五郎会長のことば「郷土の風景を守ることは私達の義務であり、責任である」この言葉ほど善福寺池に相応しい言葉は見当たりません。(中略)先人から受け継いだ善福寺池という財産を開発や利用と保存をどのようにバランスを保ちながら景観や自然を維持して次世代につないでゆくのか。私たちに課された先人からの課題です」と結んでいる。

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ボート事業、善福寺風致協会役員によるボート池の整備作業風景(出典:『善福寺池五十年の歩み』)

ボート事業、善福寺風致協会役員によるボート池の整備作業風景(出典:『善福寺池五十年の歩み』)

善福寺川源流「遅野井湧水の碑」前にて(出典:『遅野井 善福寺風致協会の足跡』)

善福寺川源流「遅野井湧水の碑」前にて(出典:『遅野井 善福寺風致協会の足跡』)

政治家・秀五郎

1924(大正13)年6月の東京府会議員当選から1947(昭和22)年4月の東京都議会議員引退まで、約23年間、政治家として活動した(※3)。

東京府会・市会議員時代
最初に府会議員に立候補したのは1923(大正12)年9月であったが、関東大震災のため選挙は翌年6月に延期された。秀五郎は、初めての洋服にわらじ履き姿で、毎日豊多摩郡全域を駆け回り、新人ながらトップで当選した。以降、4回の選挙で第2回目を除きトップ当選を果たしている(※4)。
1924年立候補時のスローガンは、東京府の「三部制経済の撤廃」である。当時は「市部経済」「郡部経済」「連帯経済」の3部に分けて経済政策が立てられており、豊多摩郡のような郡部は軽視されがちであった。この差別の廃止は直ちには実現できなかったが、1932(昭和7)年10月、東京市の市域拡大により実現した。
府会議員として、1924年から1943(昭和18)年7月の都制施行前までの5期19年を務め、かつ1932年10月から同じく1943年までの4期11年、東京市会議員として活躍している。この間、秀五郎は1934(昭和9)年5月から市会土木委員長として「東京市土木事業五十カ年計画」を策定するとともに、1936(昭和11)年7月には府会副議長に就任した。

「東京府会議員候補者 内田秀五郎」選挙ポスター(1928(昭和3)年)(杉並区立郷土博物館所蔵)

「東京府会議員候補者 内田秀五郎」選挙ポスター(1928(昭和3)年)(杉並区立郷土博物館所蔵)

1894(明治27)年建築の東京府庁舎。建築家・妻木頼黄(つまき よりなか)設計。1898(明治31)年10月より東京市役所との合同庁舎となった(写真提供:東京都公文書館所蔵)

1894(明治27)年建築の東京府庁舎。建築家・妻木頼黄(つまき よりなか)設計。1898(明治31)年10月より東京市役所との合同庁舎となった(写真提供:東京都公文書館所蔵)

東京都議会議員
1943(昭和18)年7月1日の東京都制(※5)施行を受け、第1回都議会議員選挙が同年9月13日に行われ、秀五郎は当選し、1947(昭和22)年4月まで都政に携わった。その間、1945(昭和20)年10月第三代都議会議長に就任。翌年退任するが、後任議長の死去に伴い、再度、同年12月に第五代都議会議長に就任した。都議会議長を2期務めた人物は秀五郎だけである。
終戦前後の4年間、都議会議員として都の食料対策に取り組んだ。特に終戦直後の都の食糧不足はひどく、都議会議長として地方に食料懇請行脚に出かけるなど大変苦労したと『今昔』に回想している。
また、戦災により人口が極度に減少した区も多く、戦後復興を考える上で、当時35区あった区を整理統合して規模の適正化を図る必要があった。この整理統合については、1946(昭和21)年7月に「区域整理委員会」(座長:秀五郎)において検討が進められ、同年12月、22区案を答申した。以降、統廃合される区会の議決を経て、1947年3月15日、35区は22区に整理統合された。この大役を果たし、秀五郎は同年4月に任期満了で都議会議員を退任した。同年8月1日、板橋区から分離独立して練馬区ができ、都は現在の23区となった。

60歳代の秀五郎 (出典:『米寿秀五郎翁』)

60歳代の秀五郎 (出典:『米寿秀五郎翁』)

東京35区を現在の東京23区に整理統合

東京35区を現在の東京23区に整理統合

日本農政界の第一人者

井荻村農会長から全国農業会議所会長まで
1907(明治40)年に井荻村村長に就任すると同時に井荻村農会長(その後井荻町農会長)になり、井荻町長を退任するまで21年間にわたり農民の指導啓発、農業技術の改善向上に尽力した。この間、1926(大正15)年4月に豊多摩郡農会長、市郡併合直後の1932(昭和7)年10月には東京府農会副会長に就任した。
1942(昭和17)年12月、東京都農業会長(※6)に就任。戦時下の都農業、農民のために努力を払ったが、敗戦により公職を追放された。後年、秀五郎は「1949(昭和24)年には追放令にひっかけられて、パージ(※7)組にはいらされましたので、わたくしはここで一切の公職を辞任して、やっと身軽になることができました」(『今昔』)と語っている。
ところが、2年後にパージが解除となると、秀五郎は再び多くの農業団体の長を務め(表参照)、最終的にはわが国の農政推進の第一人者「全国農業会議所」の会長となるに至ったのである。
その後も農林大臣の顧問、農林中央金庫の理事など、農業団体の要職を歴任した。
『今昔』の最終章「わたくしの農政雑感」で、秀五郎は農政に対する思いを次のように語っている。「わたくしは農家の生まれであり(中略)しんからの百姓だということをわすれたことはありません。そんなわけで、農業団体からたのまれると、その任でないことは承知でも「農村のためになることなら…」と考えて、ついひきうけてしまうのです。しいていえば、土の感覚と思想が、わたくしの生涯をつらぬいていたといえるでしょう」

秀五郎の農政関係の主な経歴

秀五郎の農政関係の主な経歴

写真上:1954(昭和29)年1月22日、東京芝公会堂で開催した農業22団体共同主催による全国農民大会で演説する秀五郎(出典:『東京農業の今昔』)<br>写真下:立川市のJA東京第一ビル前の内田秀五郎像。1959(昭和34)年3月設置。制作者:北村西望

写真上:1954(昭和29)年1月22日、東京芝公会堂で開催した農業22団体共同主催による全国農民大会で演説する秀五郎(出典:『東京農業の今昔』)
写真下:立川市のJA東京第一ビル前の内田秀五郎像。1959(昭和34)年3月設置。制作者:北村西望

農産物流通会社を経営

秀五郎には実業家としての側面もある。農産物流通の会社を興し、後半生はこちらが主力となった。

「新宿青果株式会社」の設立、淀橋分場の開場
1924(大正13)年、東京市は第1次中央卸売市場建設計画を策定し、築地本場・神田分場・江東分場を1935(昭和10)年に開場した。さらに、市は第2次計画として新たに四つの分場の開設を決定。その一つが淀橋分場で、城西地区の取扱量の半分を占める「東洋青物市場株式会社」に他の私設12市場会社を統合し、単一の卸売会社を作る計画を立てた。
ところが、卸売会社を1社にするという申し合わせが進まず、参加13市場が単一派と複数派に分かれて対立。秀五郎は淀橋分場建設の主唱者として、府会議員であり、かつ市会にも議席を持ち、なお中央卸売市場の常設委員の職にもあったばかりでなく、東洋青物市場株式会社の監査役でもあったので、本問題には当初から深い関心を持ち、陰に陽にあっせんに努めていたが、その意を果し得ないでいた。
1937(昭和12)年9月に市場施設が竣工(しゅんこう)しても対立は続き、出来上がった立派な市場に雑草が生い茂る事態となっていた。そこで、秀五郎は窮余の策として、単一派の11市場で卸売会社を組織し、1938(昭和13)年5月、「新宿青果株式会社」を設立。代表取締役社長に就任し、複数派の2市場に対して粘り強く説得を続けた。その結果、同年10月和解に至り、当初の計画通りで落着した。
こうして新宿青果株式会社は単一卸売会社として事業を始め、淀橋分場が開場したのは、市場施設が竣工してから1年半近くたった1939(昭和14)年2月のことであった(※8)。

淀橋市場の全景(1969(昭和44)年頃)。三角屋根が戦前の建物の面影を残す(所蔵:東京都中央卸売市場淀橋市場)

淀橋市場の全景(1969(昭和44)年頃)。三角屋根が戦前の建物の面影を残す(所蔵:東京都中央卸売市場淀橋市場)

淀橋市場の正門脇の市場稲荷神社境内に、1957(昭和32)年3月に設置された内田秀五郎像。制作者:津上昌平

淀橋市場の正門脇の市場稲荷神社境内に、1957(昭和32)年3月に設置された内田秀五郎像。制作者:津上昌平

戦時統制会社を経て淀橋市場の発展に貢献
1943(昭和18)年2月、戦時統制で「東京青果物配給統制株式会社」が設立され、全都の青果物配給が一元統制されることになり、「新宿青果株式会社」もこれに加わった。
戦後、1947(昭和22)年5月、統制会社は独占禁止法により解体され、各分場とも卸売会社の複数制をとることとなった。淀橋分場では新宿青果株式会社が再発足されるとともに、新たに「大新青果荷受組合」(後の「東京淀橋青果株式会社」)が生まれ、卸売会社は2社体制となった。秀五郎は、再び「新宿青果株式会社(※9)」の代表取締役社長に就任した。
その後、淀橋分場の取扱量の急増に伴い敷地や施設が手狭となったため、秀五郎はその都度当局に対し市場の拡張整備を強く働きかけ、敷地の拡張と売場の増築を実現することに成功。さらに、杉並、松原、練馬の配給所についても順次拡張整備や再配置に献身的に協力するなど、当分場の発展に大きく貢献した。1962(昭和37)年12月、淀橋分場は市場に、3配給所は分場に改称した。
1970(昭和45)年5月、秀五郎は社長を次男の孝治に譲り、取締役会長として後進を指導した(※10)。

杉並分場は2003(平成15)年4月に廃止された。<br>写真左:杉並分場(写真提供:東京新宿青果株式会社)<br>写真右:分場跡地の商業施設(サミット・コジマ)

杉並分場は2003(平成15)年4月に廃止された。
写真左:杉並分場(写真提供:東京新宿青果株式会社)
写真右:分場跡地の商業施設(サミット・コジマ)

東京新宿青果株式会社の現代表取締役社長の内田完(たもつ)さん(写真左)、前取締役会長の内田秀(しげる)さん(写真右)に、会社の沿革、淀橋市場の概況、市場関連法規、現在の業務内容などについて語っていただいた

東京新宿青果株式会社の現代表取締役社長の内田完(たもつ)さん(写真左)、前取締役会長の内田秀(しげる)さん(写真右)に、会社の沿革、淀橋市場の概況、市場関連法規、現在の業務内容などについて語っていただいた

「海外物産貿易株式会社」
「東京新宿青果株式会社」と同じく、秀五郎が青果物流通の経営に携わった会社に「海外物産貿易株式会社」がある。
1948(昭和23)年、戦時中に途絶えていた台湾バナナ輸入を復活させるため青果業界の有力者らと相談し、「海外物産貿易株式会社」を創設した。苦労の末、1949(昭和24)年に念願の民間輸入に成功。以降、着実に業績を伸ばし、バナナ専門輸入業における屈指の代表会社に成長した。1952(昭和27)年に台湾バナナ輸入協会が結成されると、「海外物産貿易株式会社」は最高幹部会社として推薦を受け、秀五郎が相談役に就任した。
1956(昭和31)年、台湾バナナが台風被害により大減産となった際には、80歳の高齢であったが、飛行機で北京に飛び、初めて広東バナナ輸入の道を開いた。1963(昭和38)年、バナナの輸入が自由化されると、価格も下がり、現在も身近な果物として定着している。
「日本バナナ輸入組合」の明石英次事務局長によると、「1965(昭和40)年、内田秀五郎氏は“海外物産貿易株式会社”の社長を後進に譲り会長に就任し、1973(昭和48)年には会長も退任された」「“海外物産貿易株式会社”は台湾バナナ輸入の老舗として2008(平成20)年までは、当協会の会員会社であった」とのこと。また、「海外物産貿易株式会社」に勤務していた関係者によると、同社は「2017(平成29)年、時代の流れもあり使命を終えて解散した」という。

かつて「海外物産貿易株式会社」に設置されていた内田秀五郎像 (出典:『米寿秀五郎翁』)

かつて「海外物産貿易株式会社」に設置されていた内田秀五郎像 (出典:『米寿秀五郎翁』)

喜寿を迎えた秀五郎(出典:『内田秀五郎傳』)

喜寿を迎えた秀五郎(出典:『内田秀五郎傳』)

「財団法人内田農業振興会」の設立

1967(昭和42)年1月、秀五郎は東京の農業の振興と後継者の育成を目的として、自ら拠出して「財団法人内田農業振興会」を設立し、初代理事長に就任した。その後、2010(平成22)年10月の公益法人制度改革に伴い、一般財団法人へ移行し、2021(令和3)年には公益認定を受け「公益財団法人 内田農業振興会」となった。秀五郎の遺志を引き継ぎ、これまでに農業の先進事例の調査研究や農業後継者育成のための助成事業を行うとともに、農業の発展・振興に功労のあった者や団体に対して顕彰事業を行い、1,600名以上を表彰している(令和3年度末現在)。 

会の設立は秀五郎の1964(昭和39)年の叙勲(勲三等瑞宝章)の記念事業でもあった。1971(昭和46)年、秀五郎は勲三等旭日中綬章も授章した(写真提供:公益財団法人 内田農業振興会)

会の設立は秀五郎の1964(昭和39)年の叙勲(勲三等瑞宝章)の記念事業でもあった。1971(昭和46)年、秀五郎は勲三等旭日中綬章も授章した(写真提供:公益財団法人 内田農業振興会)

杉並の巨星

明治、大正、昭和にわたり、井荻村(のちに井荻町)のみならず杉並、東京の発展と農業の振興に多大な事績を残し、秀五郎は1975(昭和50)年7月26日、西荻北の自宅で98歳の天寿を全うした。長く床に就くということもなく、亡くなる10日ほど前まで吸い飲みで酒を飲んでいたという。
8月5日の秀五郎の葬儀は、地元にある戦国大名今川氏ゆかりの観泉寺で、「東京新宿青果株式会社」、「東京都農業協同組合中央会」、「東邦信用金庫」など、秀五郎とつながりが深い11団体の合同葬で営まれ、5,000人を超す人々が不世出(ふせいしゅつ)の「杉並の巨星」を悼んで会葬した。
戒名は「宏徳院秀翁道榮居士(こうとくいんしゅうおうどうえいこじ)」。内田家の菩提寺(ぼだいじ)、天桂寺より授かった。

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※記事内、故人は敬称略
※1 風致地区:都市の豊かな自然環境を維持するために、自治体が保護を行う地域
※2 東京府の風致地区指定としては、1926(大正15)年9月明治神宮、1930(昭和5)年5月武蔵稜(現多摩陵)の後、同年10月には二次指定として善福寺風致地区他3地区が指定された
※3 『米寿』の閲歴から、当時は村長・町長のまま府会議員になることができたこと、府会議員と市会議員の重複も可能であったと読み取れる
※4 選挙区は第1回から第3回までは豊多摩全域、第4回目以降は杉並区一円
※5 東京都制(昭和18年法律第89号):東京府と東京市を廃止し、東京府の存在していた地域に東京都を設置した。太平洋戦争下における、いわゆる戦時法制の一つで、1947(昭和22)年の地方自治法の施行に伴い廃止された
※6 東京都農業会:第2次世界大戦中の東京の農業統制機関
※7 パージ:purge(追放)。戦後、日本占領中の連合国軍総司令部の覚書に基づいて、戦争指導者や協力者などを公職から追放したこと。公職追放
※8 淀橋分場は配給区域が広大なため、1939(昭和14)年5月、松原および荻窪の両市場跡に仮配給所(のち配給所となる)を設けた。これに伴い、「新宿青果株式会社」は、この仮配給所内に支店を置いた。1946(昭和21)年5月練馬配給所が開設
※9 その後、1951(昭和26)年11月、「東京新宿青果株式会社」に社名を変更した
※10 その後、2005(平成17)年6月、「東京新宿青果株式会社」と「東京淀橋青果株式会社」は、青果卸売事業を統合し、新会社「東京新宿ベジフル株式会社」を設立。これにより「東京新宿青果株式会社」は青果物卸売業務を停止した

写真上:米寿を祝して贈られた寿像と福寿衣を着た秀五郎<br>写真下:1963(昭和38)年3月歌舞伎座で開催された秀五郎の米寿祝賀会の様子(出典:『米寿秀五郎翁』)

写真上:米寿を祝して贈られた寿像と福寿衣を着た秀五郎
写真下:1963(昭和38)年3月歌舞伎座で開催された秀五郎の米寿祝賀会の様子(出典:『米寿秀五郎翁』)

秀五郎が眠る今川の観泉寺

秀五郎が眠る今川の観泉寺

DATA

  • 出典・参考文献:

    『内田秀五郎傳』井口泰吉(内田秀五郎翁喜寿祝賀会) 
    『米寿秀五郎翁』鈴木市太郎(内田秀五郎翁米寿祝賀会) 
    『東京農業の今昔』内田秀五郎(協同組合通信社)
    『井荻町土地区画整理の研究-戦前期東京郊外の形成事例として-』高見澤邦郎(南風舎)
    『善福寺池五十年の歩み』(善福寺風致協会)
    『遅野井 善福寺風致協会の足跡』(善福寺風致協会)
    『東京都市計画物語』越沢明(日本経済評論社)
    『石神井・善福寺公園』佐藤保雄(郷学舎)
    「善福寺風致協会の活動の変遷についての研究」中島直人、西村幸夫、北沢猛他(日本都市計画学会)
    『都史資料集成Ⅱ第2巻 [成立期の東京都] 自治体東京都の出発』(東京都)
    『東京都政五十年史 通史』(東京都)
    『東京都議会 歴代議員略歴集録』(東京都)
    『東京都農協二十年史』(東京都農協二十年史編纂委員会)
    『東京都農協三十年史』(農協法施行三十周年東京都農業協同組合記念事業実行委員会)
    『内田農業振興会創立50周年』(一般財団法人内田農業振興会)
    『淀橋市場の栞』(淀橋市場開場三十周年記念祝賀会)
    「市場のしおり-東京都中央卸売市場概要-」(東京都中央卸売市場)
    「東京新宿青果株式会社沿革」(東京新宿青果株式会社)
    「DVDありがとう杉並分場」(東京新宿青果株式会社)
    「杉並新聞(昭和50年8月25日号)」
    東京都公文書館 大東京35区物語 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0714tokyo_ku.htm
    東京都中央卸売市場 淀橋市場のご紹介 https://www.shijou.metro.tokyo.lg.jp/info/05/
    国立公文書館 アジア歴史資料センター バナナが高級品だったってホント?
     https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa12.html
    バナナ大学 バナナの歴史 https://www.banana.co.jp/basic-knowledge/history/
    東京新宿ベジフル株式会社 新宿淀橋市場の歴史

  • 取材:進藤鴻一郎
  • 撮影:進藤鴻一郎
    写真提供:東京都中央卸売市場淀橋市場、東京都公文書館、公益財団法人 内田農業振興会
  • 掲載日:2022年11月28日
  • 情報更新日:2023年02月13日