中島飛行機が解体されて、はや60年以上になる。跡地には記念碑ひとつ残すのみで2011年には防災公園として生まれ変わろうとしている。
我々は、すぎなみ学倶楽部で中島飛行機を取り上げるに当たり、既に文献に記述済みの情報ではない、地元ならではの特色を出すべく検討を重ね、取材に回った。そして、ついに当時の様子を知る貴重な証言を頂くことができた。
以下は、杉並区にお住まいの方を中心に貴重なお話を伺った、インタビュー記事である。
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すぎなみ学倶楽部 歴史>歴史資料集
子どもたちの憧れだった
(談:平井 政一さん)
「中島飛行機は、創業者の中島知久平(なかじま ちくへい)さんの地元である群馬県の太田が拠点でした。
関東大震災(大正12年)で鉄道が不通になったことをきっかけに、『太田の工場だけではだめだ。東京に工場を持とう』ということになって、まず中野辺りを物色したようですね。それを当時の内田村長さんが誘致に成功しまして、今の桃井3丁目に東京工場ができたと聞いています。
東京工場ができる前は練馬大根の畑でした。町には工場といっても、鍛冶屋か宿町にあった鉛筆の工場くらいしかありませんでした。
東京工場には高い煙突があり、飛行機を作っているということで、私たち子どもはみんな憧れていました。
工場ができたことで従業員の住宅もたくさん建ち、町も大きくなりました。」
東京工場が井荻町の中心になった
(談:金子 清さん)
「ある日、忽然と大工場ができたといったところかな。
当時、親父(※)が町議会議員をしていて、中島飛行機の誘致にも奔走したんだ。
東京工場ができると先遣隊として幹部社員たちがやってきた。その人たち用の貸家を、東京工場の真ん前に、頼まれて親父が造った。
当時、善福寺川流域は日本一オゾンの豊富な健康地といわれ、一部は別荘地として開発されていた。今の軽井沢や小淵沢みたいなもんだよ。ざっくりいえば、貸家もその一帯に連なるから、越してきた人たちも、住むのはうれしかったんじゃないかな。
その縁で親父は所長の佐久間さんたちと親しくなり、近隣農家の二男坊や三男坊を、工場の職工見習いとして就職の世話をしたそうだ。その人たちのなかにはその後、親方になったり、独立して工場を持ったりした人もいた。当時の農民が口にするものといえば麦・粟・ヒエ・キビなどであまり豊かではなかった。中島飛行機に勤めれば、生活が成り立つということはみんな知っていたよ。当時は職工見習いでも月給15円くらい。中島飛行機の待遇は良かったからね。
東京工場ができるとね、その辺を井荻町の中心にしようと、役場に小学校、警察、消防、郵便局、それに信用金庫を工場の周りに移転したんだ。カフェや料亭もできたな。上荻・中通・宿町辺りでは、廃業して貸家を始めた農家もいた。一気にモダンな街になったよ。
ただし、善福寺・新町・山谷・上井草辺りはそんなに変わらなかったよ。」
※金子半造(かねこ はんぞう)氏
目立つ存在だった
(談:湯澤 進さん)
「私は1933年(昭和8年)生まれだから、物心ついた頃には工場はできていて、『大きな工場だな』と思っていた。
当時は青梅街道といっても四面道までが大通りで、その先は狭い砂利道、通るのは馬車・牛車・大八車(木製の人力荷車で2輪)くらいだ。東京工場から出てくるトラックには、木枠で囲まれてシートを被っただけの戦闘機のエンジンが積まれていたから、それは目立ったもんだよ。当時は、青梅街道の南側は宅地化されていたけど、北側はみんな畑だった。西武鉄道の電車が通るのが見えたよ。
親父は大正時代末期に青梅街道の四面道に炭屋を開いていたんだけど、地元の炭屋なんか相手にされなかったね。中島飛行機は大きな会社だから、出入りの業者はみんな決まっていたんだろうね。
地元業者だと電気屋さんとガラス屋さんが出入りしていた。電球が切れたとか、ガラスが割れたとか、そういうときに呼ばれた訳だね。
荻窪駅には貨物列車のホームがあった。中島飛行機のために作ったのかもしれないね。引き込み線に貨車が入ってくる。起重機でエンジンを引き上げ、貨物列車に積んでいた。そのホームは日本通運も使っていたし、駅構内だから見に行ったこともあるよ。」
貸間、貸家がおおはやり
(談:万田 勇さん)
「景気の悪い町に中島飛行機の工場ができ、工場の職人たちが大勢やってきて、町も変わった。それまで町には工場なんてないしさ、職人といっても鳶とか土地の人がいるくらいだったからさ。
工場の職人たちは家を建てるのに一坪45円くらいの時代に、給料、月80~90円とっていたんだ。金遣いも派手だったね。職人たちに住むところを提供して副業にする家が増えていった。アパートなんかもない時代だから貸間か貸家だよ。うちは1928年(昭和3年)、今のところに親父が自転車屋を開業してからずっとなんだけど、当時は荻窪駅北口も新開地といって、上荻でも青梅街道、四面道から西に比べれば家もまばらだった。それでも不動産屋もなかったからさ、それぞれ自前で貸間ありって貼り紙を出したんだ。それで一番いい部屋を貸したわけ。うちでも貸していたことがあったよ。横須賀からきた職人さんだったけどさ。中島飛行機への就職もその人の紹介もあってのことだったんだ。
高等小学校を卒業して数えでいうと14歳、今の中学二年生だね。なにせ七人兄弟の長男でしょ、親たちがお金を早く欲しいもんだから、自分も働きたかったし、中島飛行機の東京工場の職人見習いの試験をうけた。当時は大きな商店やサラリーマンの子以外は、ほとんどの子が高等小学校でおわりだった。職人見習いでも月に10円。親たちは、初めての給料を神棚にあげて拝んでいたよ。」
職場のことは一切口外されませんでした
(談:齋藤 和子さん)
「父は最初、群馬県の中島飛行機の太田工場に勤務していました。東京工場ができたときに上役の方から『お前が代表して行け』と言われて東京工場勤務となりました。今の荻窪消防署の辺りにあった中島飛行機の社宅へ両親は引っ越したそうです。その社宅で私は生まれました。社宅は木造平屋で5、6棟くらいありました。1934年(昭和9年)に桃井に家を建てまして、以来住み続けています。
東京工場へ技術指導に来ていたイギリス人技師から、父はエンジンのことを教わったそうです。エンジンの勉強に没頭し、家のことは何もしないので大変だったそうです。私の記憶では、よく家の縁側で図面を広げて見ていたことや、英語で書かれた図面を日本語に訳していたことを覚えています。しかし、職場のことは軍事に関わることなので、家庭では誰にも何も言わなかったそうです。父は中島飛行機から紀元2600年記念で勤続章をもらいました。『ダイヤモンドが入っているのは特別なのだよ』と父は自慢していました。
夕方の4時になると荻窪工場のサイレンが『ぼーっ』と鳴りました。仕事が終わる合図です。サイレンが鳴ると青梅街道を工場で働く人が通ること通ること、『何があったのだろうか?』というぐらいに人々が歩いていました。私も兄とよく工場まで父を迎えに行きました。父の両脇に私たちがぶら下がりながら帰ったことを昨日のことのように覚えています。
東京工場のすぐ近くにあった桃井第一小学校に私は通っていました。1クラス40数名のうち、親が荻窪工場で働いていた子は3、4人ぐらいだったと思います。
正月になると職場の方が大勢で我が家にやって来ます。当時は出前や仕出しなどはありませんでしたから、母と姉は煮たり焼いたりの準備で大忙しだったと思います。
青梅街道を挟んでクイーンズ伊勢丹の向かい側に、当時は東京工場社員用の購買部があり、魚やお肉、衣料品なども売っていました。現金またはサインで買える仕組みになっていました。『購買に行くよ』と母が言うといつもついて行きました。大きなコロッケが1、2円。鮭が10銭でしたか、これがおいしかったんです。今でも覚えています。」
社風は自由闊達なモノ作り
(談:平井 政一さん)
「工業専門学校を卒業して、1935年(昭和10年)に中島飛行機に就職しました。子どもの頃からの憧れでしたから嬉しかったです。翌年には弟も機械工場に就職し、ふたりで通勤することになりました。
飛行機(主として戦闘機)のエンジン開発部隊は、設計から軍に正式採用されるまでを担当するチームを作り、チーム単位で活動していました。東京工場の実験工場(のちに実験部と改称)に私は配属され、エンジンの周辺補機、特に気化器(※)の実験を担当しました。入社時には、15人ほどの人(終戦時には200人)が実験部にいました。東京工場全体では、1300人ほどの人がいました。
三菱重工の方に『中島の皆さんは若いねえ』と言われたことがあります。他の大手飛行機会社と比べて中島飛行機は新しい会社で社員の平均年齢が若かったのです。
ただし軍関係の仕事でしたので、関係者以外には仕事の内容を一切漏らしてはならない決まりでした。生産台数を話しただけで嫌疑がかけられる状況でした。私は家族にすら仕事の内容を話したことがありません。
中島飛行機の社風というと『自由闊達(※)』で、新人の私でも窮屈さを感じることはありませんでした。自分の仕事に遅れが出ない限り、担当以外のことをやっていても叱られませんでした。『溶接・技術加工などもやっておけば、いつか役に立つ』という考え方も、実験部のなかでは認められていました。皆が努力して、その時間を作り出そうとがんばりました。
直属の上司だった新山春雄(にいやま はるお)さん(後のプリンス自動車販売代表取締役)の口癖は『自分で確かめろ』でした。特に東京工場では『理屈よりモノ作りがすべて』という社風でした。問題が発生すると、細部までスケッチをして報告するのが、中島飛行機独特のやり方でした。『スケッチをして細部を見極め、自分でよく考えろ』ということなのです。
中島飛行機は戦後、いくつかの会社に解体されましたが、この社風は継承されたと思います。そうそう、中島飛行機では、『○○部長』や『△△課長』のような役職名では呼ばないのです。みんな『さん付け』で呼んでいました。
社員は皆、国産エンジンを次々と送り出した、高い技術力に誇りを持って働いていました。戦後、戦争末期に三鷹研究所に異動した小谷武夫(こたにたけお)さん(後の富士重工業専務取締役)と新山さんが中心になって、エンジン部門社員のOB会ができました。武荻(むてき)会と名付けて、年に一度は集まっていたのですが、徐々に会員が少なくなり、2006年(平成18年)に解散しました。」
※気化器:キャブレター。空気と燃料を混合するエンジンの部品。
※自由闊達:じゆうかったつ。小さなことにこだわらずのびのびとしていること。
※平井さんは2021(令和3)年9月にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。
若い人の多い工場だった
(談:井口 昭英さん)
「私が通っていた桃井第一小学校は、中島飛行機の東京工場から100mぐらい離れたところにありました。
親が中島飛行機に勤めているというのは、同級生のうち1人か2人ぐらいでした。中島飛行機に勤めている人は、若い人が多かったのであまり子どもはいなかったんでしょうね。
1945年(昭和20年)頃には、荻窪工場の寮が観泉寺から農芸高校の方に向いた辺りにたくさんあったんです。荻窪工場では地方から出てきた若い人が多く働いていたんだと思います。荻窪工場の青梅街道を挟んで向かい側に購買部がありましたね。一般の人は入れないのですが、食料品などを売っていました。」
天沼陸橋ができたきっかけは中島飛行機かもしれない
(談:井口 昭英さん)
「1937年(昭和12年)に荻窪に住んでいた近衛文麿(このえ ふみまろ)さんが首相に、競馬の有馬記念で有名な、荻窪八幡神社の南横に住んでいた有馬頼寧(ありま よりやす)さんが農林大臣に、住まいはここではないのですが、中島飛行機の創始者の中島知久平さんが鉄道大臣になったんですよ。『総理大臣以下3人の大臣がこの井荻地区から出た』ということで提灯行列でお祝いしましたね。
この当時、天沼陸橋はまだなかったんですよ。踏切がなかなか開かなかったので、荻窪工場で造ったエンジンを群馬県太田工場に運ぶのに不便だったとか。ある日、『交通渋滞解消のため』ということで、天沼陸橋工事着手が決定したのです。私たちは『中島知久平さんが鉄道大臣だから、あそこに陸橋をこしらえた』と噂をしておりました。」
※天沼陸橋は、戦局悪化により1942年(昭和17年)に設置工事が中断され、1944年(昭和19年)には爆撃により破壊された。戦後になり工事が再開され、1948年(昭和23年)に開通した。
社内学校で独自の新人教育
(談:万田 勇さん)
「中島飛行機の東京工場に入社したのは1936年(昭和11年)、世界恐慌の真っ直中、2・26事件が起きた年だった。3月の100人を募集した職人見習いに1000人もきたんだ。試験は算術と身体検査。地方から来る子もいたけど、ほとんどが地元の子だったよ。工場周辺の子は特に多かった。職人見習いで入社した子は、3年間工場の現場のそれぞれの組に属し、組の親方に順番にくっついて仕事を覚えていった。私は機械工場のねじ組だった。それと同時に3年間、中島青年学校で勉強し、現場と学校と両方の評価で職人になれたんだ。
中島青年学校は会社がつくった学校で、工場の北東、道を挟んだところにあった。私がいた頃の授業は週1日で、一般教養や仕事をする上での基本的なことも教わったけど、ほとんどが軍事教練。満期になって帰ってきた陸軍の下士官たちが教えていた。桃一(現在の桃井第一小学校)は、中島飛行機との関係で工業の授業があってエンジンも置いてあったと聞いていたけど、桃一は一年生の時だけで後は杉一(現在の杉並第一小学校)にいっちゃったから。杉一にはそんな授業はなかったし、青年学校の授業は役に立ったといえば立ったけどね。銃を持って青年学校を一周して、青梅街道に出て、女子大前(東京女子大)を通って、吉祥寺の今のガード下まで片道4キロくらい、ほとんど駆け足でいったこともあった。おかげで兵隊にいってからも苦労はなかったけどさ。
職人見習いと中島青年学校、3年をがんばれば皆職人になれたけど、評価によって基本給が違ったわけ。私は小柄だけど体は丈夫で無欠勤だった。当時会社は、アイスホッケー、アイススケート、陸上と実業団で強かったけど、アイスホッケー部にも所属していたし調子もいいほうだから、3年間の評価はまあまあ良かったけどね。
武蔵野工場、多摩工場ができて、1937年(昭和13年)からかな、これでは生産が追いつかないってことで、会社は18歳まで職人見習いの採用年齢枠を延ばした。その頃から中島青年学校は、授業も仕事の合間の毎日になり、機械も入れてもっと実践的なことも教えるようになった。兵隊にいっちゃったから、その後のことはわからないけど、戦争が激しくなったから、もうあんなことはやっていられなくなったんじゃないかな。」
工場配置図
(談:平井 政一さん)
「東京工場では、エンジンの企画から生産までを行える体制と設備を備えていました。
生産台数が増えて手狭になると、工場東の区画に敷地を拡げました。施設を配置変更し、新しい施設もできました。次のように作業を分担していました。
企画部・設計部・実験部・研究部:設計図を作成
機械工場:ほとんどの部品を製造
鋳物工場:シリンダーなどアルミを使う部品の製造
焼入工場:強度が必要なクランクやシリンダーなどの熱処理(窒化)
組立工場:部品の組み立て
仕上げ工場:バリや汚れをとる、ピストンリングを装着、弁の摺合等の細部を調整
部品の加工は手作業が多く、熟練した技術が必要でした。
風洞は、当時、国内では珍しいものでした。直径3mくらいの小型なもので、尾翼などの機体の部品を据え付けて風をあて、与える影響をチェックし、太田や小泉などの機体工場にフィードバックしていました。
高井戸にB29(アメリカ主力戦略爆撃機)が墜落したときに、エンジンを回収して、性能実験をしたこともありました。
私は自宅(上荻)から自転車通勤していました。朝8時から夜7時半とか8時くらいまでの勤務でした。戦時色が強くなると毎日が残業でしたから、昼と夜の食事を工場内の食堂で摂るようになりました。
休憩時間を運動場でよく過ごしました。なにしろ大変な人数でしたから、他の部署の方と顔を合わせるのは、そのときくらいでした。
戦争末期には工場内に防空壕が造られまして、空襲警報が鳴りますと、皆でそこに逃げ込みました。」
※クランク、シリンダー、ピストンリング:エンジンの部品。
※バリ:部品を作ったときにできる不要な出っ張りなど。
※風洞:風を起こしてさまざまな実験をするための施設の1種。
エンジン生産を支えた職能集団
(談:万田 勇さん)
「工場の現場作業は、エンジンの製造過程の細かい工程を組と呼ばれた20~30人くらいの職人集団がそれぞれ請け負い、流れ作業で行われていた。私は吉本組といって機械工場でねじきり専門。初めは中ねじ、後は大ねじ、兵隊にいくまでずっとそれだった。一つの組は偉い順に、組長、伍長、親方、職人、職人見習いといった。組長クラスは軍関係の工場、太田、佐世保、横須賀と、出所によって派閥が三派あったね。それと組ごとの請負制(※)だから、皆少しでも割りのいい仕事をとろうとして、もめごともあった。仕事内容によっては月に300円くらいとる人もいたよ。
工場内では技術者は技術者でまた別の世界で、偉い順に、技師、技師補、技手(ぎて)、技手補といったんだけど、職人は組長から出世しても、せいぜい技手どまり。就職した時点でコースはもう決まっていた。入社当時は工場全体で1000人くらいだったかな、ほとんどが、こうした職人たちだったんだよ。軍関係の仕事だし、工場の本部に陸軍と海軍の大佐が監督官として常駐し目を光らせていた。出世をする人たちにとっては関係があっただろうけど、工場の現場はあまり関係なかったね。
勤務は7時半から5時、5時半くらいまで。昭和14、15年頃からかな、7時半から2時、3時くらいまでと、2時、3時くらいから11時までの昼夜交替制になった。週一日、日曜日が休みだった。工場内での労働運動の様なものは無かったし、そんな時代じゃなかったさ。何しろ仕事がない時代だったんだから。工場の従業員が増えたのは私が兵隊にいった後で、徴用工はいなかったし従業員の寮もまだなかったよ。
工場内は自由に出入りできた。バラバラの部品から星形のエンジンを組むところも見たことはあるよ。べつに秘密じゃないからさ。エンジンを作るっていうことでは皆同じ、わかってはいたけど、こっちはねじばかり、やっぱり気分は全然違ったね。ねじでは大したお金にはならなかったけど、一つ作る歩合が基本給にプラスだから、ずっと仕事をしていた。材料を回転させてバイトという刃物でねじの形に刻んでいくわけだ。機械工場には吹き抜けの天窓があって換気扇も回っていたけれどさ、油が焼けて蒸気が上がって空気は悪かった。仕事がきついとは思わなかったよ。そういうもんだと平気でやっていた。なにせまだ子供でしょ。戦争に勝つ為にも無我夢中で働いていただけ。工場にいい想い出もないよ。」
(*)請負制:個別の仕事について契約し、仕事の完成に対する報酬をえること
工場は増設された
(談:平井 政一さん)
「当初は、外国からライセンスを購入して、エンジンの製造を行っていましたが、徐々に国産エンジンの開発に移行しました。企画部からの案を、設計部と研究部と実験部で何度もやりとりをしながら、最終図面として完成させ、軍の審査をパスしてから月産2、30台くらいのエンジンの量産体制に入りました。
田無(現東京都西東京市)に実験場を持っていたので、エンジンを組み立てると田無で実験して点検して東京工場に持ち帰り、また全部分解して点検して再度稼働確認して、軍に納入していました。
やがて武蔵野に武蔵野工場ができて、そこで陸軍のエンジンを量産。その西側に多摩工場ができて、海軍のエンジンを量産していました。
1940年(昭和15年)に徴兵されまして、仏領インドシナに進駐しました。太平洋戦争が始まると、1942年(昭和17年)に飛行機製造要員として帰還復員しました。復員後は、今でいうフィールドエンジニアとして出張も多くなりました。
1943年(昭和18年)、中島飛行機は軍需会社(※1)に指定され、国有会社となりました。同じ年、武蔵野工場と多摩工場は、武蔵製作所(工場跡地は、現在のNTT武蔵野研究開発センタ、都立武蔵野中央公園)となりまして、設計部の一部などはそちらへ移りました。同時に、東京工場は荻窪工場と名称を変更しました。その頃の荻窪工場の従業員数は、5、6000人に増えていたと思います。
戦時色がさら強くなると荻窪工場の雰囲気も変わっていきました。徴用工(※2)・学徒動員・女子挺身隊(※3)の人たちも加わり、昼夜交替の勤務体制でした。女子挺身隊は都立第五高女(現都立富士高校)の生徒がほとんどだったそうです。
戦争末期には、さらなる量産化のため、中島飛行機の工場が全国各地に次々とできました。指導者として多くの社員が、荻窪工場から異動していきました。三鷹研究所(工場跡地は、現在の国際基督教大学)ができると、研究部はそちらに移転し、荻窪工場には設計部の本体と実験部が残りました。
私も実験部の一員として、武蔵製作所へ定期的に通っていました。1944年(昭和19年)11月、打ち合わせから帰った直後に武蔵製作所への空爆(※4)がありました。武蔵製作所は、度重なる空爆で壊滅状態となり、多くの犠牲者が出ました。
戦争末期には、荻窪工場では、銃の円形の台座を量産していました。荻窪工場の従業員数は、多くても2000人くらいに減っていたと思います。」
(※1)軍需会社:軍に関係する製品を生産する企業のうち、政府に統制管理された企業。
(※2)徴用工:政府に動員を命じられて勤務していた工員。
(※3)女子挺身隊:14歳以上25歳以下の女性から構成される勤労奉仕団体。
(※4)武蔵製作所への空襲:武蔵製作所は、1944年(昭和19年)11月24日から、翌年、8月25日の終戦まで、米軍のB29 の度重なる空襲をうけ壊滅状態となり、工場の従業員、工場周辺の住民、あわせて数百人の死傷者をだした。現在、武蔵製作所のあった武蔵野市では、毎年11月24日を「武蔵野市平和の日」とし、戦争の悲惨さを伝え平和について考えるとりくみが、行政、市民共同で行われている。