中島飛行機東京工場(※1)での研究開発
長澤癸行(きこう)の父雄次は、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を1919(大正8)年に卒業後、北海道室蘭の製鋼所に就職しました。しかし、勉学の志が高かったことと工業学校の学友のアドバイスもあり退職し、1923(大正12)年、東北帝国大学工学部(現在の東北大学)に進学しました。卒業間近に先生の推薦もあって中島飛行機に入社したそうです。
中島飛行機に入社したのは1926(大正15)年で、父が28歳ぐらいのときですね。東京工場が開設して間もないころで、実験研究室の主任技師を務めていました。主に「寿」「栄」「誉」エンジンなどの性能向上の研究や開発、実験と航空機用エンジン金属材料の研究や缺陥検査(※2)を行っていたようです。その後、父は製作部長、1942(昭和17)年に中島飛行機取締役に就任し、東京工場に在籍しながら、武蔵野製作所と多摩製作所を統合した武蔵製作所の統合計画を担当し、その発足に関わりました。
武蔵製作所の空爆
父は1944(昭和19)年7月に武蔵製作所副長兼工務部長となり、そのころから製作所に泊まり込むようになりました。同年11月24日、武蔵製作所は米軍爆撃機による空爆を受けました。私は母から、父のことが心配なので安否を確かめに行ってくれと言われ、数日後に出向きました。製作所は空爆で大変な状況ですから、守衛が中に入れてくれず、父と電話で連絡が取れた後ようやく中に入れてもらえました。父のいる所まで連れて行かれ、元気な姿を確認することができました。その時父は、爆撃の痕を見せてやろうと言って床に2メートル近い穴が空いているのを見せてくれましたが、その近くで複数の切削用具が取り付けられている米国製の旋盤がブンブン回っているのに驚きました。私は勤労動員で日本製の旋盤を操作していましたが、この時初めて見た旋盤は印象に残っています。父は製作所の被害などについては全く話してくれませんでした。戦後になって爆撃を受けた時の話をしてくれましたが、何度も繰り返し爆撃を受けて、製作所内が壊滅的被害を受けたころには「もう、これはだめだなと思った」と洩らしていました。
残された父の手帳には、武蔵製作所の被害状況が克明に書かれています。今これを読むと、当時の父が、空襲の記録をしながら何を考えていたのだろうか、とも思います。1945(昭和20)年4月に中島飛行機は国営化され、父は第一軍需工廠(こうしょう)第十四製造廠長となり、そこで終戦を迎えました。
中島飛行機と父について
私の父は技術者として「優れたエンジンを造りたい」と思っており、中島飛行機にはその信念に応える場があったのでしょう。年代を超え自由に議論をさせ、失敗を気にせずに任せる社風があったと聞いていました。そうした中で、40歳ぐらいの若さで要職を務め、世界水準の「栄」「誉」エンジンなどの開発・実験・製造に携わってきたことは、父の誇りであったと思います。東京工場、武蔵製作所でエンジンを造ることに一生を尽くしたと言ってもいいでしょう。悔いのない幸せな人生を送ったと思います。
※1 中島飛行機東京工場は、1937(昭和12)年7月に東京製作所(のちに荻窪製作所)に昇格するが、この記事では東京工場とする
※2 缺陥検査(けっかんけんさ):飛行機金属機材・機器の瑕疵(かし・きずや欠点)を検査すること
「祖父が1917(大正6)年に、中島飛行機の門のそば(今のクイーンズ伊勢丹杉並桃井店の辺り)に和田サイクルを創業しました。その後、爆撃を恐れて、少し離れた現在地(桃井3丁目交差点)に移転したそうです。祖父は若くして亡くなったので、祖母が人を使って店を切り盛りしました。
父正一(まさかず)は1921(大正10)年生まれで、小学校を卒業すると私立中島飛行機東京青年学校に進学し、そのまま中島飛行機に勤めました。歯車の設計と製造をやっていたそうです。その後、出征し、戻ってきたときは跡継ぎ(父の兄)が戦死していたので、和田サイクルを継ぎました。
中島飛行機が富士精密工業(のちにプリンス自動車工業)だったころからは、私も記憶があります。看板に「富士精密」と書かれていたのを覚えています。工員さんがうちの前を通って出勤するので、朝8時に店を開け、具合の悪い自転車を預かっては退社時に間に合うように修理していました。工場内は広いので、その移動用にうちからも自転車を納めていたようです。
父の印象は、とにかく「作ること」が好きな人でした。買った方が安いので買えばいいのにと思えるものも、自転車の工具も作っていました。そうそう、仕事場の作業台は父のお手製です。万力やらモーターやらを取り付けられるようになっており、今もまだ使っています。仕事道具だけでなく、物干し台も作りました。その設置を子供のころに手伝わされました。
今になって思えば、図面を引いて溶接して、いろんなもの、必要なものを作っていたというのは、作ることが楽しみだったということなのかなと思います。“作ることを手間と思わない。作ることは楽しみである”、それが生き続ける中島飛行機スピリッツなのかなと思います。」
■和田サイクル
住所:杉並区桃井4-1-1
電話:03-3399-3741
営業時間:13:00-21:00
休業:火曜、水曜
公式ホームページ:http://www.wadacycle.jp/