太平洋戦争の終盤に入ると、中島飛行機は軍需会社に指定された。終戦を迎えると、中島飛行機は解体された。戦闘機を作ってはいたが、中島飛行機もまた一種の戦争被害者だったのかもしれない。
そして、中島飛行機から派生していった企業は、国民の暮らしを豊かにする様々な製品を作るメーカーに転身していった。
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すぎなみ学倶楽部 歴史>歴史資料集
周囲の家は取り壊しに
(談:金子 清さん)
「戦時色が強くなると青梅街道の北側について、荻窪工場の周囲50mが強制的に壊された。火災が発生すると工場に災いするからだろうね。軍の命令だろうと思うけど。
我が家は中島飛行機の工場のすぐ前だし、爆撃で真っ先にやられると心配していたが、戦地から復員してみると無事だった。
近年、東京工場の跡地を防災公園にしようと、私も地元住人として尽力した。1ヶ月で13,000人の署名を集めて区に請願した。13,000人のコピーは重かったよ。いい公園になってほしいね。」
終戦間際に学童疎開
(談:湯澤 進さん)
「荻窪工場には被害はほとんどなかったけれど、荻窪工場をねらった爆弾が流れて周辺に落ちて被害が出たね。天沼陸橋も破壊された。荻窪工場を守るための高射砲(※)が中瀬(現在の中瀬中学付近)にあって、高射砲陣地と呼ばれていた。B29が久我山に撃ち落とされたことがあったよ。撃ち落としたのは、その高射砲だと聞いていた。歩いて見に行ったね。そんなことめったにないから、すごい人だかりだった。
1944年(昭和19年)の夏に長野の別所という温泉町の旅館を杉並区が借りて、学童疎開した。『空襲があるから疎開しなければならない』という説明だったね。『中島飛行機があるから空襲がある』とは言わなかった。
小学1年生は小さかったから疎開しなかったね。自分たちは6年生で卒業なので、下級生を残して、翌年(1945年)の3月10日に戻ってきたんだよ。その夜が東京大空襲だ。ビルなんかないから、ここ(上荻)からも真っ赤に空が燃えているのが見えた。その年の夏に終戦。なんだか分からないけど、日本は負けたんだなと思った。」
※高射砲:地上に設置して、戦闘機などを砲撃する大砲など。
空襲のさなか、仕事を続けた職人たち
(談:万田 勇さん)
「兵隊にいく前、代々木のほうに一回、偵察でB29が飛んできて空襲警報が鳴ったことがあった。翌1942年(昭和17年)に出征して、ずっと北京の方にいたから、その後工場や地元が空襲でどうなっているのか良く知らなかった。
1945年(昭和20年)に復員して半年も経たない内に三鷹へ行ったよ。私の職人仲間はみんな荻窪工場から武蔵野工場や多摩工場へ移り、それから三鷹研究所の方に移ったと聞いたものだから。空襲を受けてからは地下に造り直した工場で仕事をしていたそうだ。武蔵野や多摩の工場は、あんなところに、あんなでかいもの造ったら空襲の餌食じゃないかと、できた当時から言われていたんだけどね。組長や職人仲間、数人には会えた。あっちはあっちで大変、こっちはこっちで夜中の1時まで家業の自転車屋で働いている有り様だったから、それきりだよ。
復員後、荻窪工場に行ったことは今まで一度もないよ。中島飛行機時代の荻窪工場の従業員たちの集まりにも誘われたけど、こっちは仕事があるからさ。行かないでいるうちに今に至ってしまったよ。」
建築中の社宅を引き継いで
(談:中川 泰治さん)
「父が中島飛行機に勤務していた関係で、その社宅に西田町から移り住んだのが1964年(昭和21年)、私の記憶によると終戦直後の社宅はまだ建築途中であり、住める状態ではありませんでした。それで父は近所の大工さんや材料屋を駆け巡り、何とか住める状態にしたのです。
そこでは6軒の『社宅』が建設中でした。敷地は60坪で建坪は20坪の平屋でした。当時としてはごく標準的な大きさの一軒家です。
父は畑も作りたかったようで地主さんからさらに40坪を借り受け、屋敷と庭と畑の計100坪の家に私たち家族は暮らしました。
引っ越してきた当時は今と違い、住宅はほとんどありませんでした。回りは畑ばかり、道は雑草を取り除かないと歩けないほどで、夜は恐かったです。数少ない住宅は、みんな中島飛行機の社宅だったのではないでしょうか。平屋建ての一軒家で20軒ほどの集落が2箇所ありましたから。
その後、近所に四宮小学校が建てられ、畑が住宅地に変わっていきました。」
荻窪工場は、富士精密工業に
(談:平井 政一さん)
「1945年(昭和20年)、終戦となったときのことです。GHQが到着するまでのわずか10日の内に、書類の全焼却、全従業員の解雇、退去ということになりました。工場内に残った中島飛行機の社員は45人くらいでした。私も荻窪工場を去りましたが、エンジンをまた造るということで、私は1946年(昭和21年)4月25日に復職しました。復職組の中でも早いほうでした。
中島飛行機は富士産業と改称していました。労働組合も発足しまして、上部組織の全国金属労働組合(当時は関東金属)の指導による復職運動で、中島飛行機時代の社員が大幅に復職しました。
厳しい経営状況でした。給料は週払いで、それも生活に困っている人にまず給料が支払われ、『余裕のある者は遠慮しろ』という雰囲気でした。資金不足ですので、会社の敷地内の防空壕から資材や鉄の棒を掘り返しては売却して現金を捻出したりもしました。
近隣の農家は比較的裕福でしたから、社員はそれぞれ商魂を発揮して、つまり行商に出かけました。石鹸・糸・針を売りに、私も東久留米や大泉の農家を回りました。
まず、漁船のエンジンを手掛けましたが、それまで国を相手に商売していたせいなのか、会社は商売がへたで、あまり売れませんでした。朝鮮戦争(※)の特需により景気が良くなった頃は、米軍の払い下げのトラックに、ガソリンエンジンをヘッセルマン式(※)に改造して搭載させる開発をしました。ガソリンエンジンを使おうにも、当時、国内にはガソリンがありませんでしたから。
やがて富士産業は、9社に分割させられました。
荻窪工場と浜松工場は、1950年(昭和25年)、富士精密工業として再出発しました。荻窪では映写機を作りました。浜松ではミシン、リズムミシンと命名しまして、これがよく売れましたものですから、荻窪でも造りました。輸出することも多かったのです。」
※朝鮮戦争の特需:1950年代の韓国と北朝鮮の戦争を朝鮮戦争という。この戦争に荷担したアメリカ軍から日本へ発注された物資などへの需要のことを特需という。
※ヘッセルマン式:重油、軽油以外の多類の燃料が使用できる多類燃料機関。
※旧杉並公会堂の映写機も「フジセントラル」だった。
※平井さんは2021(令和3)年9月にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。
飛行機産業から自動車産業へ
(談:平井 政一さん)
富士産業の分割後、多くの工場は富士重工業となっていましたが、このうち中島飛行機時代の、武蔵製作所、三鷹研究所、荻窪工場のエンジン担当仲間の交流は続きました。会社は違えど、助け合いはちょくちょくあったのです。
富士重工業が自動車(スバル)を作るときも、富士精密工業に『エンジンを供給してくれ』という依頼があったんです。私も、富士重工業へ応援に行きました。しかし1954年(昭和29年)、富士精密工業が、戦後、エンジン提供などで提携関係にあったプリンス自動車工業と合併することになりまして、富士重工業へのエンジン供給の話は実現しませんでした。
プリンス自動車工業との合併後は、私は中島飛行機時代の経験を活かし、さらに1965年(昭和40年)の日産自動車との合併後も、自動車の開発に本格的に取り組むことになりました。
その頃のいちばんの思い出は、皇居前を出発し、京都で折り返し、通産省の試験場(小平市)まで戻り最終テストをし、日野自動車の工場で分解して評価するという、国産自動車性能試験です。1953年(昭和28年)の冬でした。自動車メーカー6社(トヨタ、日産、プリンス、日野、いすゞ、太田)が参加し、その技術力を競いました。
プリンス自動車工業は、後のスカイラインR-380の設計者である桜井慎一郎さんがドライバーで、富士精密工業から、私がエンジン担当として同行しました。
使用した車はAISH-1(のちにモデルチェンジしてスカイラインALSI-1と命名され、発売される)といいまして、エンジンは、富士精密工業が開発しました。エンジンの名前はFG4Aといいました。Fは富士精密工業のFUJIからとりまして、1500CCでした。
第一京浜を過ぎて新子安を通ったとき、他社では旗を振って社員の方々が応援しているのに、うちの応援は、新子安にお住まいだった桜井慎一郎さんのご家族だけでした。
愛知県に入ったのが夜、雪が降っていました。トヨタ自動車の人が辻ごとに立ち、道案内をしていました。トヨタの動員力には驚きました。夜半、休憩所に入りました。休憩所といってもおそらくトヨタ自動車の社員住宅の運動場だったと思います。子どもたちが我々の所にやってきて、『これがプリンスか!』と言っていました。当時、本格的な乗用車は他にはありませんでしたから。他の会社の車はトラックのシャーシー(自動車の部品。車台)にボディを載せた程度の車だったのです。
鈴鹿峠では雪が凍っていまして、持参していたシャベルで雪かきもしました。そして京都に着きました。帰りは順調で、性能試験の評価は「良」だったと思います。」
プリンス自動車工業が合流
(談:田中 次郎さん)
「私は、戦前、陸軍の航空研究所で、いわば各飛行機会社の製品の審査をする立場だった。日本の飛行機業界は戦争で大きくなったようなものだから、終戦後、飛行機会社は次に何をやるか? これからの時代を考えれば『自動車』だった。
戦後は、立川飛行機(のちに、東京電気自動車→たま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業と改称)に勤務していた。
立川飛行機では電気自動車を開発した。環境に配慮するという観点から、近年、電気自動車は注目されているけれど、当時は日本国内にガソリンがなかったから取り組んでいた。
その頃の富士精密工業には、これといった決め手がなかった。
映写機は良かった。ミシンは浜松のほうだった。クレームで戻ってきた農耕用ディーゼルエンジンが、工場内に、山のようにころがっていたのを覚えている。
そんなふうだから、段々に我々と自動車をやろうって気になっていったのかもしれない。
1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発し、電気自動車がだめになったので、富士精密工業に自動車エンジンの製造を依頼した。
1951年(昭和26年)、待ちに待った1500CCエンジンのFG4Aが完成した。Fは富士精密工業のFUJIからとった名前だ。我々の造った車体にこのエンジンを載せて、1952年(昭和27年)、念願の乗用車AISH-1と、ボンネット型トラックAFTF-1が同時に発売された。
国産自動車性能試験もこの頃の思い出だね。
1954年(昭和29年)のプリンス自動車工業と富士精密工業との合併については、もともと同じ飛行機会社仲間だから、それほど違和感はなかった。」
日本の自動車産業の先端を走る
(談:田中 次郎さん)
「飛行機は専門のパイロットと整備士で運営されていたけれど、自動車は『だれでも運転できるもの』でなければならない。自動車の開発では、使う人の立場に立つことを心掛けた。
先発の大手自動車会社が、まだ戦前の設備や材料と考え方でやっていて、日本の自動車業界がそういうふうに考える段階になかった時代だったから、作り出した自動車は評判をとった。後発でしかも小さい会社でやっていくには、すき間を狙うしかない。
いいものを作ればどんどん売れる世の中だった。
富士精密工業との合併後の1955年(昭和30年)には、キャブオーバー型のトラックAKTG-1を開発し発売した。
朝鮮戦争による特需で、世の中に物が動き始めた時代だった。
自動車といえばトラックでほとんどが三輪、それも積載量の3倍くらい載せて走っていた。
それまで最大でもトヨタの950CC/積載量1tだったものを、プリンスでは1500CC/積載量1.25tに引き上げ、しかも車体の強度をその3倍の積載量でもちこたえられるようにしたので、好評だった。
さらに、ボンネット型では前輪と後輪の荷量分布が変わっていた問題点(前が軽く、後ろが重い)を、キャブオーバー型にすることで解消した。そして車輪間の距離を小さくすることで、小回りが利くようになった。前部分を縮めた分、荷台を大きくすることができた。この形式は現在も、日本製トラックのモデルになっている。」
日産自動車との合併
(談:田中 次郎さん)
「AISH-1はさらに改良を加え、スカイラインALSH-1と命名され、1957年(昭和32年)に発売された。スカイラインは、その後、自家用車/高級車/スポーツカーと多岐の開発の経路を辿って、変遷していった。
1961年(昭和36年)には、社名を富士精密工業からプリンス自動車工業に改称した。
ようやく自家用車という考え方が普及してきた頃だ。でも乗用車はまだまだ高価で、タクアゲといって、タクシーの中古車を購入することも多かった。
乗用車の先鞭を付けて、プリンス自動車工業はモータースポーツに乗り出した。
しかし第1回日本GP(1963年(昭和38年))では惨敗した。プリンス自動車工業は、規則どおりにほとんどノーマル車で臨んだ。ところが他社はレース用に改造していたんだ。次のレースに向けて会社全体をあげて取り組んだ。そして翌年第2回日本GPでは大勝ちした。
1965年(昭和40年)の日産自動車との合併話は突然だった。当時、生産量で、トヨタ、日産自動車に次いで3位、これからの計画もすでに立っていた時期だったし、技術では勝っていると思っていたから、とんでもないと思った。
『旧中島飛行機発動機発祥の地』の碑は、日産自動車との合併後、荻窪工場の自動車部門が厚木に移ったときに、関係者が建てた。
『ロケット発祥の地』の碑は知らなかった。荻窪工場には日産自動車の宇宙航空事業部がいたから、その人たちが建てたのかな。
1999年(平成11年)には、日産自動車に、ルノーが資本参加をした。経営の立て直しということで、荻窪工場も閉鎖され、工場跡地も売却されることになったが、プリンス自動車工業の設計のOB会である、荻友会(てきゆうかい)は健在だ。皆で年に2回は顔を合わせるようにしている。」
『仲間意識』を引き継いだことを誇りに思う
(談:綾部 庄一さん)
「私が富士重工業に入社したのは1959年(昭和34年)のことです。当時は『親方』と呼ばれる職人さんがそれぞれの持ち場を仕切っている時代でした。いかにも職人然としていて、足袋に雪駄履き、頭にタオルを鉢巻して、タバコを吸いながら機械を扱っていました。
現代では、ずぶの新人さんも1週間もあれば、工場の製造ラインで1人前の仕事をしますが、当時は新人は職人さんの下について、治具(工作用の器具)の手入れや職場の掃除などを行い、少しずつ仕事を覚えていくシステムでした。おそらく戦前の中島飛行機は、もっと師匠と弟子といった関係が強く出ていた現場だったのではないでしょうか。
富士重工業といえば、技術力重視というイメージがあります。優秀な設計者だけでなく、このような職人さんたちの技術を中島飛行機から受け継いできたのでしょう。
しかし、私は技術力ともう一つ、受け継いでいるモノがあると思っています。それは『仲間意識』です。飛行機を製造するということは、自動車産業にも通じることですが、ものすごく裾野の広い産業です。1台の飛行機・自動車を作り上げるまでに工場の従業員はもとより、数多くの設備・材料・部品メーカーが協力し合っているのです。
工場内のある機械が不調になった、ということになれば1日の生産計画に支障が出ます。『あれ、なんか変だぞ』ということになると、その機械に関わる人が総出で修理に当たります。設備メーカーはもちろん、材料・部品メーカーの人たちまで借り出されてメンテナンスすることもありました。私たちにとって設備・材料・部品メーカーの方々は下請け業者ではありません。ともに自動車を作り上げる『仲間』なのです。
世界三大金型メーカーのうち2社が群馬県にありますが、『中島の時代にお世話になりましたから』と丁寧な取引をしてもらっていました。このようなことはほかの設備・材料・部品メーカーに対しても珍しくありませんでした。それが中島飛行機時代に培われた『仲間意識』の遺産だと思うのです。」
7に移動(2018/2/5)
戦後のようす4 生き続ける中島スピリッツ
(談:和田 良夫さん)
「祖父が1917(大正6)年に、中島飛行機の門のそば(今のクイーンズ伊勢丹桃井店の辺り)に和田サイクルを創業しました。その後、爆撃を恐れて、少し離れた現在地(桃井3丁目交差点)に移転したそうです。祖父は若くして亡くなったので、祖母が人を使って店を切り盛りしました。
父正一(まさかず)は1921(大正10)年生まれで、小学校を卒業すると私立中島飛行機東京青年学校に進学し、そのまま中島飛行機に勤めました。歯車の設計と製造をやっていたそうです。その後、出征し、戻ってきたときは跡継ぎ(父の兄)が戦死していたので、和田サイクルを継ぎました。
中島飛行機が富士精密工業(のちにプリンス自動車工業)だったころからは、私も記憶があります。看板に「富士精密」と書かれていたのを覚えています。工員さんがうちの前を通って出勤するので、朝8時に店を開け、具合の悪い自転車を預かっては退社時に間に合うように修理していました。工場内は広いので、その移動用にうちからも自転車を納めていたようです。
父の印象は、とにかく「作ること」が好きな人でした。買った方が安いので買えばいいのにと思えるものも、自転車の工具も作っていました。そうそう、仕事場の作業台は父のお手製です。万力やらモーターやらを取り付けられるようになっており、今もまだ使っています。仕事道具だけでなく、物干し台も作りました。その設置を子供のころに手伝わされました。
今になって思えば、図面を引いて溶接して、いろんなもの、必要なものを作っていたというのは、作ることが楽しみだったということなのかなと思います。“作ることを手間と思わない。作ることは楽しみである”、それが生き続ける中島飛行機スピリッツなのかなと思います。」
■和田サイクル
住所:杉並区桃井4-1-1
電話:03-3399-3741
営業時間:13:00-21:00
休業:火曜、水曜
公式ホームページ:http://www.wadacycle.jp/