高田は弁護士の父と敬虔(けいけん)なクリスチャンの母の元、2歳から17歳まで福井県で過ごした。県立福井中学校(現県立藤島高等学校)2年生だった14歳ごろ、芸術雑誌で画家・岸田劉生(きしだ りゅうせい)の作品を見て美術に目覚めたという。ウィリアム・シェークスピアを原文で読み、哲学を志す早熟な少年だった。
1918(大正7)年春、17歳で上京し、友人の紹介で東京市本郷区駒込林町(現文京区千駄木)のアトリエに彫刻家で詩人の高村光太郎を訪ねる。高村は高田の描いた絵に才能を覚えて岸田に引き合わせ、17歳年下の高田を友人として対等に遇した。高田は21歳ごろ絵画から彫刻に転じ、高村に彫刻台を借りて制作を始める。
一方で語学も堪能だった。東京外国語学校(現東京外国語大学)イタリア語科は2年で退学したが、その翌年、16世紀イタリアの伝記作家アスカニオ・コンディヴィの大著『ミケランジェロ伝』を訳注して岩波書店から出すなど、青年時代から型破りな多才ぶりを見せた。
高田の杉並時代は1925(大正14)年~1931(昭和6)年の約6年間だ。父の遺産をはたいて西荻窪駅近くの中高井戸(現松庵)にアトリエを新築し、24歳の時に妻子と移り住んだ。後年、自伝でこの時期を「結婚生活と新家屋とそして貧乏が同時にやってきた。(中略)ただ、彫刻の仕事だけは続けていた」(『分水嶺』)と振り返っている。
アトリエには哲学者の谷川徹三、文芸評論家の古谷綱武や、詩人の中原中也が足しげくやってきた。作家の大岡昇平や小林秀雄も訪れたという。中でも中原は、恋人だった長谷川泰子と彫刻台の間で取っ組み合いのけんかをしたり、高田に恋愛詩を見せに来たりと連日通いつめ、ついには高田の近所に住むようになった。
この頃、上高井戸(現高井戸東)に住んでいた詩人の尾崎喜八らと「ロマン・ロランの会」をつくり、1926(大正15)年に来日したフランスの詩人シャルル・ヴィルドラックと会っている。
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杉並での高田のユニークなエピソードに、貧しい芸術家同士で共同生活を試みた話がある。1926(大正15)年ごろのことで、この経緯は『分水嶺』に詳しい。
高田は下高井戸近辺の土地を借り、仲間が共同生活できる家を建てた。その場所で登山家の長尾宏也や芸術家志望の若者たちが梅を植え、ヤギを飼い、農業で生計を立てようと画策する。この計画には高村や詩人の高橋元吉が参加。上高井戸で百姓生活をしていた江渡狄嶺(えど てきれい)も愉快そうに笑って賛同してくれたそうだ。
あいにく立地が悪く、すぐに東京府北多摩郡三鷹村牟礼(現三鷹市井の頭)に場所を移したが、若者たちの共同生活は3年あまり続き、「共産村」「赤い家」と呼ばれて評判になった。高田は管理人としてたびたび通い、中原がギターを弾きに来たり、地方から文学青年が訪ねて来たりと、「赤い家」はあたかも芸術村の様相を呈した。
「赤い家」には、当時、非合法下にあった共産主義者たちが駆け込むこともあったという。高田自身はアナキスト的な立場であり共産主義者ではなかったが、活動に理解を示していた。
1929(昭和4)年のある日、高田の留守中、アトリエに共産党員が逃れてきて機関紙「無産者新聞」の発送作業を行い、当局に摘発される事件が起きた。高田も容認者として杉並警察署の留置場で取り調べを受けることになる。偶然にも隣の房には、同郷のプロレタリア文学者・中野重治がいた。
また高田は『分水嶺』で、渡仏後に日本の共産主義活動家から作家・小林多喜二の拷問獄死を伝える機関紙「赤旗(せっき)」を国際郵便小包で受け取ったと回想している。
1931(昭和6)年2月、高田は妻と4人の子供を残してフランスに渡る。満州事変の直前、30歳の時のことだ。パリで旧友の詩人・片山敏彦に迎えられ、程なくスイス滞在中のロランを訪ねる。初対面時に高田の彫刻作品の写真を見たロランは、片山に宛てた手紙で「彼は、単に外形だけを形づくるのではなしに、形にしるしづけられている精神をも形づくる、本当の芸術家です」と評価。それまで誰にも許可しなかった肖像制作を高田に依頼した。
なお近年、小樽商科大学名誉教授の髙橋純さんの研究により高田とロランの交流に新たなスポットが当てられた。2021(令和3)年に出版した『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺』で、髙橋さんがフランスに出向いて探し当てた往復書簡の全訳を紹介。ロランが亡くなるまで続いた二人の親交を23通の手紙から浮き彫りにしている。同書では、高田と小林多喜二、ロランとの接点も解き明かされており興味深い。
フランスでは極貧の中でも彫刻に向き合い、芸術家や知識人たちと自然体で交流を続けた。後にロラン、アラン、ルオーをはじめ、フランスで親交があった詩人のジャン・コクトー、画家のポール・シニャックら友人たちの像を制作している。
1935(昭和10)年ごろ、社会評論家の淡徳三郎と在欧日本人向けの新聞「日仏通信」を発刊。戦中戦後の欧州にとどまり、ジャーナリストとして活動した数少ない日本人でもあった。第2次世界大戦が始まり1940(昭和15)年にフランスがドイツに占領されると、同盟国民として毎日新聞特派員となるが、その立場を利用して陰ながらフランスのレジスタンスに協力した。
ドイツ降伏時にベルリン近郊にいた高田はアメリカ軍の収容所生活を経て、1946(昭和21)年苦難の末フランスに戻る。戦後も日本へ帰らず、パリ郊外のアトリエで彫刻と執筆を続ける道を選んだ。
埼玉県東松山市に高田の作品を鑑賞できる散策スポットがあると知り「高坂彫刻プロムナード~高田博厚彫刻群~」を訪ねた。東武東上線高坂駅西口から続く歩道に、約1㎞にわたって32体の彫刻作品が展示されている。街路樹の緑と彫刻の美が調和し、ゆったりと置かれた作品の一つ一つが語りかけてくるようだ。
東松山市教育委員会生涯学習部長の柳沢知孝さんに設置のいきさつを聞くと、「高村光太郎が結んだ縁です」と教えてくれた。高村と親交があった田口弘・元教育長が1965(昭和40)年に高村をしのぶ集い「連翹(れんぎょう)忌」で高田と出会ったことがきっかけで、1980年代から彫刻のある街並みづくりがスタート。1994(平成6)年に32体の設置が完了した。
「2017(平成29)年からは、毎年、高田に関連するアートイベントを開催しています。杉並の皆さんもぜひ遊びに来てください」と柳沢さん。市内在住のイラストレーター絵子猫さんと高田の作品のコラボレーション企画など、新たな発信に取り組んでいる。
高田は杉並ゆかりの人物の肖像も多数手掛けた。プロムナードではその一つ「棟方志功」を鑑賞できる。柳沢さんは「全ての彫刻の台座には各作品にまつわる高田の短文が添えられています。近代彫刻の巨匠であり、一流の文筆家でもあった高田のマルチな才能を感じてほしい」と展示の魅力を語る。手で触れて鑑賞してもOKだそうだ。
なお、杉並での芸術家・文人たちとの交流は、『分水嶺』の他『薔薇窓から』『人間の風景 高田博厚芸術ノート』などの著作でも生き生きと描かれている。いずれも杉並区立図書館に所蔵があるので、ぜひ、ひもといてみてはいかがだろうか。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の偉人>棟方志功さん
※記事内、故人は敬称略
『分水嶺』高田博厚(岩波書店)
『薔薇窓から』高田博厚(筑摩書房)
『人間の風景 高田博厚芸術ノート』高田博厚(朝日新聞社)
『形の美のために 高田博厚芸術ノート』高田博厚(求龍堂)
『思索の遠近』高田博厚(読売新聞社)
『フランスから』高田博厚(講談社)
『私の音楽ノート』高田博厚(音楽之友社)
『ミケランジェロ伝-付・ミケランジェロの詩と手紙-』アスカニオ・コンディヴィ著、高田博厚訳(岩崎美術社)
『ロマン・ロラン全集35 書簡・日記』ロマン・ロラン著、蛯原徳夫、宮本正清、山口三夫訳(みすず書房)
『高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺』高田博厚、ロマン・ロラン著、髙橋純編訳(吉夏社)
「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」杉並区立郷土博物館
「高坂彫刻プロムナード~高田博厚彫刻群~」東松山市教育委員会
東松山市公式ホームページ「彫刻家 高田博厚とは?」 https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/51/3369.html