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尾崎喜八さん

自然と音楽を愛した詩人

尾崎喜八(おざき きはち 1892-1974)は自然と音楽を愛した詩人だ。大正から昭和の時代に、詩集『花咲ける孤獨(こどく)』、散文集『山の繪本(えほん)』、随筆集『音楽への愛と感謝』ほか多くの著作を残した。また「山の詩人」としても知られ、1958(昭和33)年に哲学者・串田孫一らと山の文芸誌「アルプ」を創刊した。
平明かつ選び抜かれた美しい口語体で自然、芸術、人への愛をつづった尾崎の作品は、声に出して読むとひときわ魅力が引き立つ。好んで朗読されたり、男声合唱曲の詞として歌われたりと、今なおファンが多い。2022(令和4)年9月には講談社より「創文社オンデマンド叢書(そうしょ)」として、『尾崎喜八詩文集』全10巻やヘルマン・ヘッセの翻訳書を含む尾崎の著書18冊が復刊。オンラインで代表的な書籍を注文できるようになった。

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尾崎喜八さん。東京都世田谷区上野毛にて撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館、撮影:三宅修さん)

尾崎喜八さん。東京都世田谷区上野毛にて撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館、撮影:三宅修さん)

復刊した尾崎の著書。創文社(現在は講談社より「創文社オンデマンド叢書」として発売)(写真提供:石黒敦彦さん)

復刊した尾崎の著書。創文社(現在は講談社より「創文社オンデマンド叢書」として発売)(写真提供:石黒敦彦さん)

生誕130年を記念した展示を杉並で開催

尾崎は1923(大正12)年から1944(昭和19)年にかけて、一時期を除き杉並で暮らした区ゆかりの文人でもある。杉並区立郷土博物館は、2021(令和3)年に孫の石黒敦彦(いしぐろ あつひこ)さんから、直筆資料や初版本を含む関連書籍など、多岐にわたる資料の寄贈を受けた。中でもカメラを愛好していた尾崎が昭和初期に杉並で撮った数百枚の乾板写真(※1)は、戦前の希少な記録として博物学的にも大変価値があるものだ。
2022(令和4)年12月、同館は石黒さんの監修を受けて企画展「生誕130年 詩人・尾崎喜八と杉並」を開催。本稿では展示に使われた尾崎撮影の写真を交えながら、杉並時代の尾崎の活動を中心に紹介する。
(掲載写真のうち〇印は尾崎が撮影した乾板写真)

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<追記>
尾崎喜八関係資料(ガラス乾板附ネガフィルム)747点が、2022(令和4)年度の区指定有形文化財(歴史資料)に指定されました。
-2023年5月18日 加筆-

1935(昭和10)年、荻窪でたくあん用の大根を干す光景(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

1935(昭和10)年、荻窪でたくあん用の大根を干す光景(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

高井戸の田園風景。昭和10年代の秋に撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

高井戸の田園風景。昭和10年代の秋に撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

高村光太郎との出会い、ロマン・ロランとの交流

1892(明治25)年、尾崎は東京市京橋区(現東京都中央区)で隅田川のほとりにある廻船(かいせん)問屋の長男として生まれた。京華商業学校(現京華商業高等学校)を卒業後、銀行に勤めながら西欧文学の英訳本を読みふけり、19歳の時、高村光太郎の詩に心酔。翌1912(明治45)年に高村のアトリエを訪ね文学への志を打ち明けた。以来、二人は親交を結ぶ。20代で父との確執や恋人との死別という苦難を経験し、28歳で勤務先を辞して本格的に詩作を始めた尾崎を、精神的に支えたのも高村だった。後年、高村は尾崎の結婚祝いにミケランジェロ模刻の自作ブロンズ像を贈っている。
1916(大正5)年には雑誌「白樺(しらかば)」に連載していたロマン・ロランの音楽評論集の翻訳『近代音樂家評傳(おんがくかひょうでん)』を出版。その後、1922(大正11)年に、尾崎がスイス滞在中のロランに第一詩集『空と樹木』を贈ったことがきっかけで、親しく書簡を取り交わす間柄となった。

高村光太郎作「聖母子像 尾崎喜八・水野實子両君結婚の日」(個人蔵)

高村光太郎作「聖母子像 尾崎喜八・水野實子両君結婚の日」(個人蔵)

ロランから尾崎に宛てた書簡の一部(所蔵:杉並区立郷土博物館)

ロランから尾崎に宛てた書簡の一部(所蔵:杉並区立郷土博物館)

高井戸で半農半学の生活

1923(大正12)年の暮れ、尾崎は豊多摩郡高井戸村大字上高井戸(現高井戸東)に新居を構え、翌3月、小説家・水野葉舟の娘・實子(みつこ)と結婚。近隣に住む江渡狄嶺(えどてきれい)一家の教えを受けて野菜栽培や養鶏にいそしみながら、クラシック音楽鑑賞や詩作に打ち込む半農半学の生活を満喫した。
玉川上水が窓の向こうに見える二間の家には、高村光太郎・智恵子夫妻、彫刻家の高田博厚、詩人の片山敏彦らが足しげく訪れ、1926(大正15)年にはフランスの詩人シャルル・ヴィルドラック夫妻が来訪。同時期に、岩手から上京していた詩人で童話作家の宮沢賢治がチェロ講師の紹介を求めて訪ねて来たこともあった。また、この頃、尾崎夫妻は長男・朗馬雄(ろまお)を幼くして亡くし、ロランから切々とした弔意の手紙を受け取っている。
尾崎は1928(昭和3)年まで高井戸で過ごし、詩集『高層雲の下』『曠野(こうや)の火』を出版。田園で暮らす喜びを高らかにうたい、詩人としての地歩を築いていった。

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1926(大正15/昭和元)年ごろ、娘・栄子を抱く尾崎(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

1926(大正15/昭和元)年ごろ、娘・栄子を抱く尾崎(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

詩集『曠野の火』(素人社)の初版本(所蔵:杉並区立郷土博物館)

詩集『曠野の火』(素人社)の初版本(所蔵:杉並区立郷土博物館)

「生態気象写真家」として昭和初期の杉並を活写

家督を相続するため、一時期、高井戸から下町の生家に戻った尾崎だったが、自然への愛はやまなかった。38歳ごろから登山に目覚め、自然地理学や気象学の勉強を本格的に開始。1931(昭和6)年に豊多摩郡井荻町大字下荻窪(現南荻窪1丁目)に転居すると、山や自然の風景、植物などを撮るため手札型乾板のカメラや、イコンタの蛇腹式カメラを入手し、植物学者で植物写真などの撮影技術に精通していた武田久吉の指導のもと、写真技術を学んだ。尾崎は「生態気象写真家」として写真雑誌に山野草や気象などの撮影について寄稿する傍ら、昭和初期の杉並を歩いて、農作物や畑の風景、善福寺川で遊ぶ子供たちの姿などを活写している。
博物学的な視点と文学を融合し、1933(昭和8)年、詩集『旅と滯在』、1935(昭和10)年に最初の散文集『山の繪本』を出版。「詩と科学とが共に奏でて歌をなしている文章、(中略)-日本でこれが最初の詩精神につらぬかれた生活と自然愛との協奏曲のような文学-」(『尾崎喜八詩文集 4』後記)の境地を目指した。

1934(昭和9)年、善福寺川ほとりの風景(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

1934(昭和9)年、善福寺川ほとりの風景(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

『山の繪本』(朋文堂)の初版本(所蔵:杉並区立郷土博物館)

『山の繪本』(朋文堂)の初版本(所蔵:杉並区立郷土博物館)

『雲』と「井荻日記」

1936(昭和11)年から1940(昭和15)年まで、尾崎一家は友人の野鳥研究家・中西悟堂が所有する井荻3丁目(現善福寺2丁目)の洋館に居住。善福寺池ほとりの東京女子大学にほど近い静かな家で、妻や娘の栄子(えいこ)と共に井荻周辺の自然観察や雲の写真撮影などに精を出した。日本で最初に「飛行機雲」と認定された写真は、この家で撮影されたという。その後、近隣に転居し、1944(昭和19)年まで井荻に住んだ。
1942(昭和17)年に出版した写真と雲の解説書『雲』を見ると、尾崎が気象観測にかなりの知識を持ち、精密な技術で雲を撮影していたことが分かる。また1944年元旦から2月15日までの日々をつづった「井荻日記」(『尾崎喜八詩文集 5』所収)には、冬空の天体観測や善福寺池での野鳥観察の様子が詳細に書き残されており、約80年前に区内で記された自然記録としても興味深い。この文章は、21世紀になって杉並区立科学館(2016年閉館)が区内の自然のフィールドワーク「『井荻日記』を読む」を開くほど、レベルの高いものだった。

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中西悟堂邸で編み物をする妻・實子。1937(昭和12)年に撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

中西悟堂邸で編み物をする妻・實子。1937(昭和12)年に撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

昭和10年代後半に撮った雲。「春ノ急雨ヲ降ラス早手性積雲」(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

昭和10年代後半に撮った雲。「春ノ急雨ヲ降ラス早手性積雲」(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

東京セネタース応援歌を作詞

尾崎は上井草球場を拠点としていた東京セネタースの熱烈なファンでもあった。セネタースは貴族院議員・有馬頼寧(ありま よりやす)をオーナーとして1936(昭和11)年に結成され、戦前に活動したプロ野球団。尾崎は試合に足を運び、選手の雄姿や球場の様子を写真に残している。天才二塁手といわれた苅田久徳(後に監督となる)をひいきにし、選手たちを自宅に招き食事をふるまうこともあった。
また、尾崎は親しい作曲家の小松平五郎と共にセネタースの応援歌「東京セネタースの歌」を作っている。同チームで活躍した野口二郎投手は「応援歌ができて、尾崎先生が持ってきてくれたことを覚えています。その応援歌を覚えるためにグラウンドでみんなで練習しました」と、2003(平成15)年に区立郷土博物館の取材で語っている。

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昭和10年代の上井草球場(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

昭和10年代の上井草球場(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

「東京セネタースの歌」のレコード(所蔵:杉並区立郷土博物館)

「東京セネタースの歌」のレコード(所蔵:杉並区立郷土博物館)

晩年まで自然と山、音楽に親しむ

戦後は1946(昭和21)年から7年間、長野県富士見村(現富士見町)に暮らし、代表作となる詩集『花咲ける孤獨』を編んだ。富士見町高原のミュージアム内には尾崎の大きな紹介コーナーが設けられている。
1952(昭和27)年には東京に帰り、妻、娘夫婦、孫と共に世田谷で過ごした。1958(昭和33)年、串田孫一と共に⼭の⽂芸誌「アルプ」創刊に参加した。現在では北海道斜⾥町にある「アルプ」関連の文芸の全てを集めた北のアルプ美術館にも多くの尾崎ゆかりの資料がある。
1966(昭和41)年から北鎌倉で暮らし、同年、詩集『田舎のモーツァルト』を出版。最晩年の随筆『音楽への愛と感謝』の「あとがき」に「音楽の美に装われながら文学の仕事に一生を捧げたかった。そしてその望みは、多少なりとも叶えられたように自分では思っている」とあるように、82歳で亡くなるまで自然とともに音楽を愛し続けた生涯だった。

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富士見村の森にて。1950(昭和25年)にセルフタイマーで撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

富士見村の森にて。1950(昭和25年)にセルフタイマーで撮影(所蔵:杉並区立郷土博物館 〇)

1968(昭和43)年、明月院の裏山でブロックフレーテ(リコーダー)を吹く尾崎(所蔵・杉並区立郷土博物館 〇)

1968(昭和43)年、明月院の裏山でブロックフレーテ(リコーダー)を吹く尾崎(所蔵・杉並区立郷土博物館 〇)

石黒敦彦さんに聞く「祖父・尾崎喜八」

石黒さんは尾崎の娘・栄子の長男。幼少期から大学生までを世田谷と北鎌倉の家で祖父と暮らした。『音楽への愛と感謝』には「高校生の孫・敦彦」として登場。祖父をサポートして上高地ウェストン祭に同行する様子が愛情深い筆致で書かれている。石黒さんは「音大生になった姉は“おじいちゃんのアイドル”でしたが、僕は“だめな方”の孫」とユーモアたっぷりに語りつつ「祖父は完成された口語自由詩の作り手で、優れた朗読者でもありました。NHKの高校講座“現代国語”に講師として出演した時、宮沢賢治の“永訣(えいけつ)の朝”を朗読するために、事前に岩手出身の若い詩人から方言レッスンを受けている姿を見て、高校生だった僕は“詩人とは、ここまでやるのか”と衝撃を受けたのを覚えています」と振り返る。
自身はサイエンス・アート研究者として大学で講義するなど国内外の美術家と共に活動。「尾崎が“白樺”で交流した陶芸家バーナード・リーチのお孫さんとは、英国の写真家スーザン・ダージェスさんの紹介で偶然知り合いました。お互いに祖父たちとは違う仕事をしてきたのに、芸術の100年の大きな流れの中で、全然別の方向から、また会うべくして出会ってしまう。不思議な縁を感じました」と語る。

尾崎喜八の孫・石黒敦彦さん。区立郷土博物館本館にて

尾崎喜八の孫・石黒敦彦さん。区立郷土博物館本館にて

1960(昭和35)年に鎌倉で尾崎(中央)と撮った一枚。右端の少年が石黒さん(所蔵:杉並区立郷土博物館、撮影:山崎榮治さん)

1960(昭和35)年に鎌倉で尾崎(中央)と撮った一枚。右端の少年が石黒さん(所蔵:杉並区立郷土博物館、撮影:山崎榮治さん)

「日本の近代詩の揺り籠」としての杉並

石黒さんは「尾崎喜八生誕130年記念事業」の代表を務める。「杉並区に望むことは、尾崎が撮影した善福寺界隈(かいわい)の様子、大根干しなど杉並の農村風景、荒野の中に毅然(きぜん)と立つ東京女子大学のチャペル、杉並の子女や少女たちの情景、敗戦後に気象庁が欲しがった気象観測など昭和の記録を、詩の仕事と共にぜひ100年後の杉並の人々に伝えてほしい。同時にロランら世界の文人との交流、杉並を往来した多くの詩人たち、宮沢賢治、吉田一穂(よしだ いっすい)、高村光太郎、高田博厚、片山敏彦、北原白秋、中西悟堂、草野心平、江渡狄嶺らの熱い交流の記録から、昭和の杉並は“⽇本の近代詩の揺り籠”だったのだということを、21世紀の区民にも知ってほしいと思います」

※記事内、故人は敬称略
※1 乾板写真:乾板(ガラスなどの透明な板に感光乳剤を塗って乾かした写真感光板)を用いて撮影した写真

アルコ・ムジカ「⼝語⾃由詩とオイリュトミーのために」練習⾵景。尾崎の詩「巻積雲」のシーン(撮影:阿部浩)

アルコ・ムジカ「⼝語⾃由詩とオイリュトミーのために」練習⾵景。尾崎の詩「巻積雲」のシーン(撮影:阿部浩)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『尾崎喜八詩文集1~10』尾崎喜八(創文社)
    『山の絵本』尾崎喜八(岩波書店)
    『アルプ 特集 串田孫一』山口耀久・三宅修・大谷一良編(山と渓谷社)
    『世界の詩54 尾崎喜八詩集』串田孫一編(彌生書房)
    『わが音楽の風光』尾崎喜八(六興出版)
    『音楽への愛と感謝』尾崎喜八(平凡社) 
    『花咲ける孤独 評伝・尾崎喜八』重本恵津子(潮出版社)
    『チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞』横田庄一郎(音楽之友社)
    「上井草球場の軌跡」杉並区立郷土博物館
    「区民とつくる企画展 上井草球場」杉並区立郷土博物館
    「尾崎喜八資料」第7号(尾崎喜八研究会)
    ウェブサイト「詩人 尾崎喜八」
    北のアルプ美術館公式ホームページ
    富士見町公式ホームページ https://www.town.fujimi.lg.jp/

  • 取材:内藤じゅん
  • 撮影:内藤じゅん、TFF
    写真提供:杉並区立郷土博物館、石黒敦彦さん
    取材日:2022年09月16日
  • 掲載日:2022年12月19日
  • 情報更新日:2023年05月18日