小林多喜二(こばやし たきじ 1903-1933)はプロレタリア文学作家である。
秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)の自作農兼小作農の農家に生まれる。幼い頃、一家は経済的に立ち行かなくなり、北海道の小樽に移住。伯父の経営するパン工場で働きながら、北海道庁立小樽商業学校(現北海道小樽未来創造高等学校)、ついで旧制小樽高等商業学校(※1)に進学した。その間、文学、美術、演劇に親しみ、小説を校友会誌に寄稿、雑誌に投稿した。自身の暮らす小樽、ことに港や工場街とそこで働き暮らす人々への愛着にあふれた内容だった。
小樽高商卒業後、北海道拓殖銀行に就職し、小樽支店に勤務。文学仲間たちと同人雑誌「クラルテ」を創刊した。この頃から、プロレタリア文学運動(※2)に関心を持ち、身近な人々が貧しく虐げられていることへの憤りからその実態を描くようになり、「文芸戦線」に発表した『女囚徒』が出版物に掲載された最初の作品となった。
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1927(昭和2)年ごろから、小樽合同労働組合を通じ、北海道各地の労働争議や小作争議、労農党の普通選挙運動への支援活動をするようになり、作品も貧困と差別の社会構造を浮き彫りにする内容に変わっていく。全日本無産者芸術連盟(ナップ)の日本プロレタリア作家同盟(以下、作家同盟)に加盟し(※3)、共産党への弾圧(三・一五事件)を描いた『一九二八年三月十五日』、カニ漁業の漁夫・水夫たちの過酷な労働現場を描いた『蟹工船』などを、ナップの機関誌「戦旗」に発表した。
『蟹工船』は、逆境に抵抗する労働者たちが生き生きと描かれているだけにとどまらず、背景の国際関係、軍事関係、経済関係も浮き彫りにした大作で、単行本化され、発禁処分を受けながらも、半年間で発行部数3万5千部のベストセラーとなった。
小林は、1930(昭和5)年3月に上京。中野町上町(現中野区中央)に下宿する。北海道拓殖銀行を解雇された直後のことで(※4)、作家同盟第二回全国大会に出席することが目的だった。
東京の作家同盟の、立野信之、徳永直、壺井繁治などと交流を深め、ことに杉並町成宗(現杉並区成田東)の立野宅には頻繁に訪れていた。「帰る帰るといいながら、一日、一日と日を過ごしていた」(『青春物語 その時代と人間像』より)と立野は回想している。小林の風貌は、立野が小林の筆跡、プロフィール写真、経歴から想像していたイメージ(長身で色白な美男子)とはかけ離れていた。立野宅で小林と初対面した徳永も、「君は本物の小林君か」と二度も聞いたという。
小林が出獄した時、ナップおよび作家同盟は、共産党への弾圧と相まって中心メンバーが次々と逮捕され壊滅的な状態となっていた。この時期、作家同盟書記長に推されて就任、再建を託される。
父親はすでに亡くなっており、小樽に残っていた母・セキを東京に呼び寄せ、先に上京していた弟と三人で、1931(昭和6)年7月から杉並町馬橋(現杉並区阿佐谷南)で借家暮らしを始める。「親子三人同居の東京生活は和やかなものでありました。殊に多喜二は私に心配をかけまいとして、一切思想的な方には話を触れず…」(『母の語る小林多喜二』より)と、セキはのちに回想している。
この頃、文学関係者が多く集まる阿佐谷の中華料理店「ピノチオ」にも、常連の立野に連れられて通っていた。また、日本プロレタリア美術家同盟の岡本唐貴が近所に暮らしており、親交を深めた。
地下活動中の緊張下、小林は書く時間もないはずの多忙な生活の中、『党生活者』など作品を執筆し続けた。
地下活動を共にしていた作家の手塚英孝は、この時期の小林の言葉を伝えている。「誰か、体全体でぶつかって、やる奴はいないかな。死ぬ気で書く奴はいないかな」(『小林多喜二』より)。
左翼劇場に所属していた伊藤ふじ子と結婚し、隠れ家を転々としていたが、1933(昭和8)年2月、赤坂で張り込んでいた特別高等警察の刑事たちに捕らえられ、築地警察署内で拷問の末、虐殺された。享年29歳、小樽の人々の現況を描いた『地区の人々』が絶筆となった。
遺体は馬橋の家に戻り、駆けつけた近親者や作家仲間によって、警察官に家を取り囲まれる中で通夜が営まれた。死因は取り調べ中のショック死とされた。
書きたいことを書いて虐殺されるという前代未聞の惨事は、プロレタリア文学運動の関係者のみならず文学界全体に衝撃を与えた。小林の死について、当時、杉並ゆかりの作家では、葉山嘉樹が『葉山嘉樹日記』に、木山捷平が『酔いざめ日記』に書き残している。伊藤整は、1937(昭和12)年発表の『幽鬼の街』に小林多喜二の亡霊を登場させた。画家・津田青楓は「犠牲者」を描いた。
小林の死因に関する言論は封じられ、関係資料も没収されたままだったが、終戦後、江口渙ら作家仲間の告発により真相が明らかにされた。小林の作品が自由に読むことができる時代となり、生前未発表だった作品も含め、次々と本や全集が出版され、人々に感動を与え続けている(※9)。
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市立小樽文学館(外部リンク)
※1 旧制小樽高等商業学校:現小樽商科大学。1年後輩に伊藤整が在学していた。小林と伊藤は東京でも親交が続いた
※2 プロレタリア文学運動:プロレタリア(労働者)主体の社会理想、文学理想を掲げた文学運動
※3 小林は当初、労農芸術家連盟に加盟した。葉山嘉樹の作品に感動し、手紙のやりとりをしていた。労農芸術家連盟分裂後、共産党の政治運動を支持する前衛芸術家同盟に加盟。前衛芸術家同盟が日本プロレタリア芸術連盟と合併しナップが結成されると、ナップの文学関係者の団体である日本プロレタリア作家同盟に加盟し、ナップの小樽支部を組織した
※4 左翼運動に関わっていること、『蟹工船』『一九二八年三月十五日』『不在地主』などに北海道拓殖銀行を批判の対象として実名で出したことで解雇された
※5 『蟹工船』の内容の一部が天皇に対する不敬罪にあたること、共産党への資金提供、二つの容疑で起訴された
※6 豊多摩刑務所:1915(大正4)年から1983(昭和58)年まで、豊多摩郡野方村(現中野区新井)に存在した刑務所。治安維持法違反の被告、受刑者も多く収監されていた。現在跡地は、中野区立平和の森公園などになっている。小林は出獄後すぐに、豊多摩刑務所での体験を元に『独房』を発表した
※7 この時期、危機的事態に対処するため、ナップは日本プロレタリア文化連盟(コップ)に組織改変した
※8 小林は、再建をかけた1932(昭和7)年の作家同盟第五回全国大会の草案を作成した。公式発表の全国大会は中止に追い込まれたが、その数日前、秘密裏に杉並町天沼(現杉並区天沼)の津田青楓洋画塾の場を借りて開催されていた。この時期の作家同盟の主要メンバーで、杉並ゆかりの作家は亀井勝一郎、淀野隆三など
※9 小林多喜二ゆかりの小樽市の旭展望台に「小林多喜二文学碑」が建立されており、「冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉われている」と、豊多摩刑務所内から児童文学者の村山籌子に宛てた手紙の一節が刻まれている。小林の業績を後世に伝える数々の試みが、市立小樽文学館をはじめ、全国各地で続けられている
『日本プロレタリア文学集26 小林多喜二集1』小林多喜二(新日本出版社)
『日本プロレタリア文学集27 小林多喜二集2』小林多喜二(新日本出版社)
『ザ・多喜二 小林多喜二 全一冊』小林多喜二(第三書館)
『小林多喜二名作集「近代日本の貧困」』小林多喜二(祥伝社)
『小林多喜二―21世紀にどう読むか』ノーマ・フィールド(岩波書店)
『小林多喜二の手紙』荻野富士夫編(岩波書店)
『小林多喜二読本』多喜二・百合子研究会編(啓隆閣)
『小林多喜二』手塚英孝(筑摩書房)
『青春物語 その時代と人間像』立野信之(河出書房新社)
『母の語る小林多喜二』小林セキ(新日本出版社)
『小林多喜二と宮本百合子』蔵原惟人(東風社)
『さまざまな青春』平野謙(講談社)
『たたかいの作家同盟記 上巻』江口渙(新日本出版社)
『たたかいの作家同盟記 下巻』江口渙(新日本出版社)
『小林多喜二の肖像』市立小樽文学館編(小樽文学舎)
『作家小林多喜二の死』江口渙(書房ゴォロス)
『葉山嘉樹日記』葉山嘉樹(筑摩書房)
『酔いざめ日記』木山捷平(講談社)
『街と村・生物祭・イカルス失墜』伊藤整(講談社)
『プロレタリア文学史 上巻 』山田清三郎(理論社)
『プロレタリア文学史 下巻 』山田清三郎(理論社)
『プロレタリア文学風土記─文学運動の人と思い出』山田清三郎(青木書店)
『日本プロレタリア文学集 別巻 プロレタリア文学資料集・年表』(新日本出版社)
『名著複刻全集 近代文学館 作品解題—昭和期—』(近代文学館)
『新潮日本文学アルバム28 小林多喜二』小林多喜二(新潮社)
『蟹工船』(複刻版)(日本近代文学館刊 新選名著複刻全集)
『転形期の人々』小林多喜二(ほるぷ出版 初版本による複刻全集 小林多喜二文学館)
『プロレタリア文学論』小林多喜二・立野信之(ほるぷ出版 初版本による複刻全集 小林多喜二文学館)
「改造」1930年5月号(改造社)