建築史家の陣内秀信(じんない ひでのぶ)さんは、2歳から成田東に暮らす杉並人だ。イタリアを中心にイスラム世界を含む地中海世界から、江戸・東京の下町、山の手さらに武蔵野や多摩地区まで、研究対象は幅広い。都市研究者としての歩みや、慣れ親しんだ杉並への思いなどを伺った。
劇的に変化した風景
1947(昭和22)年に福岡県八幡市(現北九州市)に生まれ、2歳の時に成宗1丁目(現成田東)に引っ越して来ました。当時、民家はほとんどが平屋建てで、内風呂がない家が多く銭湯に通うのが普通でした。車の入らない狭い道は格好の遊び場で、子供の天国といった感じでした。善福寺川は河川改修がされておらず、台風のたびに洪水を引き起こす氾濫原(はんらんげん)で、川沿いの遊歩道や桜も存在していませんでした。
1957(昭和32)年に父の転勤で一時杉並を離れ、1962(昭和37)年に戻ってきたのですが、わずか5年留守をした間に風景が完全に変わっていて驚きました。時は高度経済成長期の真っただ中で、都電は地下鉄荻窪線(現東京メトロ丸ノ内線)に変わり、水田があった場所には阿佐ヶ谷住宅(※1)が建設されていました。付近にあった東京都清掃局のごみ収集施設は、住環境への配慮のため撤去されていました。成宗界隈(かいわい)の幼少時の風景が劇的に変化したのは、阿佐ヶ谷住宅ができたことが大きいと思います。
東京大学工学部建築学科に進学した頃は、高度経済成長に対して、欧米の後を追うだけで良いのかと懸念を抱いていました。設計・施工よりも物事を考えることをしたくて、ゼミでは建築史を選びました。私は都市空間や普通の人が暮らしてきた建物に興味を持っていたのですが、当時の建築史はモニュメント的建物の研究が中心でした。そこで、他の人があまり研究していない都市の歴史を学ぶため、イタリアへの留学を決意しました。
1973(昭和48)年からイタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学に留学し、2年在籍した後で都市再生の国際研究機関であるユネスコのローマ・センターに移りました。イタリアは留学するのに最悪とまでいわれるほどマイナーな存在でしたが、留学した頃は時代の変革期を迎え、スクラップ&ビルドと決別し、古い物を生かしながら新しい物を取り入れ都市を再生する方向に舵(かじ)を切り始めていました。そのような時代に居合わせることができて幸運でした。偶然訪ねた南イタリアの小都市チステルニーノでは、近代的都市の単調さとは無縁の迷宮的な景観に面白さを感じ、小さい町をもっと調べてみたくなりました。地元の人と交流しながら、実測や図面作りも行いました。後の学生とのフィールドワークの原点です。帰国後の1978(昭和53)年に、イタリア留学の成果をまとめた初めての著作『都市のルネサンス イタリア建築の現在』(※2)を中公新書から出版しました。
帰国後に取り組んだのは、イタリアでの都市調査体験を下敷きにした東京研究でした。歩き回るうちに見えてきたのが、地形の重要性です。建築の周りにあって、それを支えているものが風景を作っていることに気が付きました。例えば、下町は水の存在に規定されて場所が意味を持つ「水の都市空間」なのです。1985(昭和60)年に、東京のフィールドワークで見えてきたものをまとめた『東京の空間人類学』(※3)を筑摩書房より出版しました。
水を観点に再びイタリアで調査・研究を行った後、研究テーマとして選んだのが、東京中心部の外に広がる武蔵野です。この地域は江戸時代の近郊農村が大正末期頃からそのまま住宅地に変わり、武蔵野の要素がどんどん失われていっています。岩波書店発行の雑誌『世界』の戦後40周年記念特集で、初めて杉並のことをエッセイに書いたことをきっかけに、自分の原風景を探ってみたくなりました。そのために役立ったのがイタリアのサルデーニャ島調査です。そこで重要な鍵を握った「水」「聖域」「古道」に着眼し、杉並でフィールドワークを行うと、区を流れる4本の河川(※4)を起点とした江戸時代以前の古層が確認できました。
4本の河川沿いの高台は縄文・古墳時代の住空間となり、古代から中世にかけて湧水のある場所に「聖地」として神社が作られ、各神社を結ぶように南北の鎌倉古道(※5)が通りました。
中央線は、もともと何も無かった場所に敷設されたので、そこから離れると面白い発見があります。古地図を持って川沿いや鎌倉古道沿いを歩くと、今まで見えなかった古代・中世の姿が見えてきます。たとえば、フィールドワークによって分かったのですが、成宗須賀神社の西隣の成宗弁財天社には池があり、江戸時代には、善福寺川と桃園川を結ぶ「天保新堀(てんぽうしんぼり)用水」という用水路が引かれていました。
神田川沿いもお勧めです。縄文時代の竪穴住居跡の下高井戸塚山遺跡(※6)が存在し、ポテンシャルの高い場所であったことがわかります。神田川の南側斜面には神社と寺が点在し、古いストーリーを感じさせます。
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イタリアでは、1980年頃から中規模の町が元気になってきたのを見てきました。大都市文明からの脱却はポストコロナの重要課題で、欧米各国でも都市環境を見直そうという運動が盛んになっています。「15分コミュニティ論」(※8)では、15分の徒歩圏に何でもそろっているコミュニティが提唱されています。実現は難しいですが、目標として杉並もそのような方向に進んでほしいです。
キャラクターの異なる商店街が多数存在することは、杉並の面白さの一つです。阿佐谷パールセンター商店街のように鎌倉古道につながる商店街もあり、古いものを抱き込んでいる場所でもあります。そこがコモンズ(コミュニティ内の誰でも自由に利用できる場所)としてコアな存在になれば良いと思います。2021(令和3)年4月に井草にオープンした「農福連携農園すぎのこ農園」にも注目しています。農業だけでなく、環境保全、地域交流、防災など多様な価値を持つ場所として、コモンズとしての役割を果たす場所になることを期待しています。
杉並は、河川改修や「神田川・環状七号線地下調節池」の敷設によって豪雨による中小河川の氾濫(はんらん)が減っています。今後は、必要な改修工事を行うにしても、緑を増やすなど、より環境に配慮することが望まれます。杉並なら可能だと思います。昔の日本人は、自然は恵みと災いが表裏ということを知っていました。危険性も含めて川に意識を向け、自然への畏怖(いふ)の念を取り戻すことが災害に備える上で大切です。火災防止に関しては、道路拡幅や建物の不燃化などを一気に進めるのではなく、価値のある路地などを残しながら、ゆるやかに耐火性を強めていく方向が好ましいと思います。
取材を終えて
留学先に選んだ水の都ヴェネツィアから、河川に注目して原風景探索のフィールドワークを行った杉並まで、話の中には常に水が存在しており、都市研究の歩みがその流れに重なり印象的だった。スローシティ杉並実現のため、今後も研究成果を踏まえた視点から提言をしてもらいたい。
陣内秀信 プロフィール
1947年、福岡県北九州市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。
1973-1975年、ヴェネツィア建築大学留学。1976年、ユネスコのローマ・センター留学。1990年、法政大学工学部建築学科教授(2018年退官、現特任教授)。専門はイタリア建築・都市史。江戸・東京に関する研究でも注目されている。著書は前掲のほか『南イタリアへ!』『イタリア海洋都市の精神』『水都 東京-地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外』など多数。
プレゼントのお知らせ
※プレゼントの応募は締め切りました。たくさんのご応募、ありがとうございました。
三浦展さんとの共著『中央線がなかったら 見えてくる東京の古層』(NTT出版)に陣内さんの直筆サインを入れて、1名の方にプレゼントします。ご希望の方は、こちらからご応募ください。(締め切り:2022年2月13日 日曜日)。当選された方には、送り先を確認するメールを2月18日までに送信いたします。
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※1 阿佐ヶ谷住宅:成田東にあった全350戸の分譲型集合住宅地。1958(昭和33)年に竣工、2013(平成25)年に解体
※2 『都市のルネサンス イタリア建築の現在』:2001(平成13)年に『イタリア都市と建築を読む』(講談社)として再刊行。2021(令和3)年に『都市のルネサンス イタリア社会の底力』(古小烏社)として再々刊行
※3 『東京の空間人類学』:1985(昭和60)年にサントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞。1992(平成4)年に文庫化(ちくま学芸文庫)
※4 北から妙正寺川、桃園川(現在は暗渠)、善福寺川、神田川
※5 鎌倉古道:鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網。鎌倉街道とも呼ばれる
※6 下高井戸塚山遺跡:区立塚山公園敷地一帯を中心とした旧石器時代から縄文時代中期にかけての集落跡
※7 スローシティ:地域の農産物、生活、歴史、自然環境などを大切にし、個性や多様性を尊重したまちづくりを目指す考え方。イタリア発祥
※8 15分コミュニティ論:フランスのソルボンヌ大学教授カルロス・モレノが提唱
『中央線がなかったら見えてくる東京の古層』陣内秀信・三浦展(NTT出版)
『水都 東京―地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外』陣内秀信(筑摩書房)
『東京の空間人類学』陣内秀信(筑摩書房)
『わたしの東京学』陣内秀信(日本経済評論社)
『杉並区勢概要 昭和32年版』東京都杉並区役所