1944(昭和19)年7月7日、日本が統治していたサイパン島が陥落。同島はアメリカ軍の爆撃機拠点となり、日本全土が爆撃圏内に入った。同年11月24日昼過ぎ、111機のB29(※1)が東京上空に来襲。第1目標は中島飛行機武蔵製作所(現東京都武蔵野市)、第2目標は東京市街地で、これが杉並区初の空襲であった。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲からは、夜間焼夷弾(※2)爆撃が始まり、区も5月24日から25日にかけて最大の被害を受けた(※3)。
「すぎなみ学倶楽部」では、取材を通してさまざまな方から区内の空襲や建物疎開(※4)、学童集団疎開などの話を伺ってきた。そのような戦争・戦災についての証言や、戦時中の杉並について書かれた本、戦後の平和活動などをまとめて紹介する。2025(令和7)年、戦後80年という節目の年に、戦争当時の記憶を振り返り、平和について考えてみてはいかがだろうか。
・井草高等女学校の東の空からB29の大群が襲来
戦争のつめ跡・戦争体験>【証言】ある女学生の戦時下の普通の日々
・井荻の家のすぐ近くに爆弾が落下
戦争のつめ跡・戦争体験>【証言】中島公子さん
・爆撃の中、杉並能楽堂で狂言の稽古
戦争のつめ跡・戦争体験>【証言】山本東次郎さん
・中島飛行機武蔵製作所の空爆
【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡>7関係者の家族が語る中島飛行機-証言集-
・天沼陸橋も破壊された
【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡>2中島飛行機の戦後-証言集-
・久我山にB29が墜落/高射砲(※5)の音を耳にしつつ防空壕に身を潜めた
記録に残したい歴史>幼なじみが語る昭和の思い出
・一面焼け野原の中で残っていたかしの木
戦争のつめ跡・戦争体験>かしの木は残った(杉並区立杉並第六小学校)
・間引き疎開は免れたが空襲で薬局が焼失
老舗企業・老舗商店>石井薬局
・建物疎開のための取り壊しを行った消防士
道を究める>原田弘さん
・中島飛行機の周囲の家は取り壊しになった
【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡>2中島飛行機の戦後-証言集-
・太宰治が通っていたパン店も建物疎開の対象に
杉並名品復活プロジェクト>続 太宰治の愛した「ステッキパン」
・金属が不十分で金物屋にとっては厳しい時代
老舗企業・老舗商店>カナモノワタナベ
・戦争で店を失うも文房具店として再出発
老舗企業・老舗商店>大一喜久屋商店
・学童集団疎開の第1陣が長野県へ出発
戦争のつめ跡・戦争体験>杉並の学童集団疎開
・東村山への集団疎開と東京大空襲
戦争のつめ跡・戦争体験>【証言】中島公子さん
・長野の別所の旅館を区が借りて学童疎開
【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡>2中島飛行機の戦後-証言集-
・学徒動員により中島飛行機三鷹研究所で働く
杉並の偉人>北原怜子さん
・戦前の最先端技術を担った荻窪の中島飛行機東京工場
記録に残したい歴史>世界に誇る航空エンジンを開発-中島飛行機東京工場
・戦争末期、中島飛行機東京工場では銃の円形の台座を量産
【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡>1発展する中島飛行機-証言集-
・馬橋にあった陸軍気象部に勤務
戦争のつめ跡・戦争体験>【証言】中島邦男さん
・公園になる前は旧通産省機械技術研究所があった
公園へ行こう>杉並区立井草森公園
・陸軍に接収された過去を持つ浴風会
戦争のつめ跡・戦争体験>浴風会
・戦時中には軍需工場に指定された岩崎通信機株式会社
老舗企業・老舗商店>岩崎通信機株式会社
・東京女子大学の礼拝堂は戦時迷彩(※7)が施された
杉並の教育>東京女子大学
・戦時中と戦後は和菓子の製造・販売が不可能に
老舗企業・老舗商店>三原堂
・戦況悪化で酒の販売量は月単位で厳しく決められた
老舗企業・老舗商店>酒ノみつや
・戦時下で自転車屋が売れるものはタイヤくらい
老舗企業・老舗商店>万田サイクル
・出征兵士の慰問袋に入れられるほど、ふりかけ「是はうまい」が人気
老舗企業・老舗商店>丸美屋食品工業株式会社
・焼け出された下町の相撲部屋が阿佐谷に移ってきた
記録に残したい歴史>原田弘さんが語る、戦前~戦中の思い出
・金属類回収令(※8)で梵鐘(ぼんしょう)を献納した中道寺
杉並の寺社>中道寺
・戦時中に食糧難と栄養失調がまん延
記録に残したい歴史>高井戸の浴風園-高齢者福祉のさきがけ
・日本政治史上重要な場所となった荻外荘(てきがいそう)
戦争のつめ跡・戦争体験>荻外荘(近衞文麿旧宅)
・馬橋の陸軍気象部内にあった気象神社
戦争のつめ跡・戦争体験>気象神社
・区内に現存する頑丈な設計の防空壕(ぼうくうごう)
戦争のつめ跡・戦争体験>現存する防空壕
・戦争の犠牲となった戦士の霊を慰める斎霊殿
戦争のつめ跡・戦争体験>馬橋稲荷神社 斎霊殿・忠魂碑
・区立馬橋公園に残る軍用地境界標石(※9)
公園へ行こう>杉並区立馬橋公園
・戦時下の東京で体験し感じたことが市民目線で描かれる
『あの頃のこと 吉沢久子、27歳。戦時下の日記』吉沢久子 著
・東京大空襲後から終戦までの杉並の住宅地が舞台
『この国の空』高井有一 著
・ユーモアたっぷりに描かれた太平洋戦争の頃の少年時代
『荻窪あうとろ~』はら ただお 著
・戦時総動員体制に組み込まれていった学生たちの体験
『立教高等女学校の戦争』神野正美 著
・戦時下の杉並に暮らした人々の共通の迷い、苦しみ、憤り
『夢声戦争日記』徳川夢声 著
・関東大震災から太平洋戦争後まで、井伏鱒二の文筆生活
『荻窪風土記』井伏鱒二 著
・井伏鱒二が戦時中、山梨に疎開していた体験がモチーフ
『二つの話』井伏鱒二 著
・戦前~戦後にわたって作品を発表した小川未明を紹介
『[赤いろうそくと人魚]をつくった小川未明』岡上鈴江 著
・杉並区長初公選で当選した新居格が苦闘した日々
『杉並区長日記』新居格 著
・近衞家の人々の戦争当時の杉並での様子が分かる
『近衞家の太平洋戦争』近衞忠大 著
・戦時下の国民学校の様子などを掲載した杉並区郷土史
『目で見る杉並区の100年』郷土出版社 発行
・戦前・戦中の風景と暮らしなど、写真約600点を掲載
『写真アルバム 杉並区の昭和』いき出版 編著
・高井戸中学校に贈られたアンネ・フランクゆかりのバラの歴史
【証言集】アンネのバラ 咲かせ続ける平和の願い
・世界を結ぶ核兵器反対運動へ発展した杉並の署名運動
記録に残したい歴史>杉並で始まった水爆禁止署名運動
・杉並から世界へ。ある魚商が起こした署名運動の記録
記録に残したい歴史>竹内ひで子さんが語る原水爆禁止署名運動
・区民の自覚的な平和・命を守る学び舎だった杉並区立公民館
【記録集】杉並にも公民館があった
・ユネスコに協力する地域民間団体として、都内で最も早く結成
杉並の地域活動>杉並ユネスコ協会
※1 B29:第2次世界大戦中にアメリカのボーイング社が開発した、長距離・高高度・大量の爆弾搭載能力を持つ戦略爆撃機
※2 焼夷弾:内部に燃えやすい油などの物質を詰め込んだ爆弾。着弾すると燃え広がり、消火が難しい火災を発生させる。主に建物を焼き払うために使用された
※3 杉並区は終戦までに延べ18回の空襲を受けたと記録されている。被害は以下の通り(出典:『新修杉並区史 下』)
・死者181名(92,778名) ・負傷者611名(150,948名)
・行方不明4名(6,944名)
・家屋全壊71棟 ・同半壊116棟
・全焼11,840棟 ・半焼140棟
・罹災者(りさいしゃ)43,059名(3,044,197名)
( )内の数字は東京都空襲被害
※4 建物疎開:空襲による火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して防火地帯を造ること。他にも軍用道路拡張、防空施設設置、軍事施設保護の目的で取り壊しが行われた
※5 高射砲:主に敵航空機を迎撃するために配備された対空兵器。区の高射砲陣地では、口径の異なる七高(口径7cm)、八高(同8cm)、十二高(同12cm)、十五高(同15cm)が配備されていた。七高では、超高高度を飛ぶB29に届かず、陸軍は大口径化を急いだが、十五高が完成して実践配備されたのは終戦の年であった
※6 学徒動員:中学生以上の生徒・学生が戦争遂行のために労働力として動員されたもの。その一環として、特に大学生や高等教育機関の学生が戦場に送られた
※7 戦時迷彩:太平洋戦争中、米軍の爆撃機から見えにくくする目的で、建物に塗装や模様が施された
※8 金属類回収令:戦争中に鉄・銅製品を家庭や工場などから回収して軍需生産に回した
※9 軍用地境界標石:旧陸軍が所有していた土地の境界を示すために設置された石柱。1889(明治22)年から戦後間もない時期まで、現在の高円寺北1丁目~区立馬橋公園~現日本大学第二中学校・高等学校までは、東西に長い陸軍用地だった